2009.1.11 萩原町ウオーキング
(平成21年1月11日(日)天気:小雨・曇り) (今日の歩数:29218歩)
★一宮市観光協会ホームページ ★一宮市ホームページ ★一宮市博物館
★★佐藤一英 作詞(萩原中学校校歌及び愛知県立尾張病院の歌)★★
★★郷土の詩人佐藤一英を訪ねて(20Kmウオーキング)★★
県立循環器呼吸器病センターで受付 Am8:52 |
尾張一宮学検定試験博士号合格者 9:10 |
愛知県立尾張病院の歌(佐藤一英作詩)の壁画 |
萩原連区会長伊藤さんの歓迎挨拶 9:14 |
愛知県立循環器呼吸器病センター(H17年改称) 造園工事中に弥生式土器が発掘され、「尾張病院 山中遺跡」と命名されている。病院内ロビ−には、 佐藤一英「尾張病院の歌」を壁画にしたものがある |
一宮市指定文化財の木造釈迦如来座像がある 曹洞宗の常清寺。定印(じょういん)を結ぶ釈迦 両手の示すポーズで諸仏の悟りの内容、性格、 働きなどを表す。(鎌倉以降の作) |
無量山長隆寺(真言宗の古刹) |
S39年長隆寺の境内社が中島宮に変更 |
中島城址(室町末期に廃城) |
中島廃寺(奈良時代後期に創建) |
河室山観音寺(観音菩薩立像がある) |
木造十一面観音菩薩立像(市指定文化財) |
歌手の舟木一夫(萩原町出身)が寄贈した仏像 |
県立一宮西高校BB部による歓迎演奏 |
佐藤一英氏 明治32年(1899年)10月13日〜昭和54年(1979年)8月24日(79歳) 愛知県中島郡祖父江町下丸渕山新田、佐藤源兵衛方で生まれる。父は広三郎(萩原町高松本郷) 一英氏は、故郷をこよなく愛し、一宮、尾西、など尾張部の学校の校歌、社歌、病院歌、青年団歌 にも多くの詩を残しており、今回の歌曲集には四十四曲の作品が掲載されている。 ('91,11,3一宮タイムス)「佐藤一英歌曲集(ふる里のうた)」紹介文 上記の校歌のうち6校の校歌のマップです。 (萩原小、萩原中、朝日西小、朝日東小、万葉保育園、萩原保育園) 早稲田(わせだ)大学英文科予科中退。予科時代、吉田一穂(いっすい)、中山義秀 (ぎしゅう)、横光利一(りいち)らと知る。 菊池寛(かん)論『軽さと重さ』(1919)によって注目されたが、のちに春山行夫(ゆきお) らと詩誌『青騎士』を創刊。 また『文芸時代』『詩と詩論』『新詩論』などに精力的に詩、評論を発表。 おもな詩集に、若々しいロマンチシズムに彩られた処女詩集『晴天』(1922)、 『故園の莱(あかざ)』(1923)、『魂の楯(たて)』(1942)などのほか、 第二次世界大戦後の時代状況を歌った『乏しき木片』(1947)、『幻の鐘』(1948)などがある。 新韻律詩を実践提唱したことでも知られ、『新韻律詩論』(1940)がある。 (Yahoo!百科事典) |
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一宮市立 萩原中学校校歌 佐藤一英 作詞 森 一也 作曲 昭和33年3月11日制定 「佐藤一英歌曲集(ふる里のうた)」より 1、その名もゆかし 萩原の 土にわれらは産まれけり 照る日のめぐみ 身に浴びて 群れ咲く花の「生」を識る ああ われら萩原の子よ 2、中島宮の あとどころ 伝えいかしき 石文に いにしえ人の 心読み みなもと遠き「生」を識る ああ われら萩原の子よ 3、伊吹の風に よみがえる 土のいのちの 尊さよ そのことわりを 胸に彫(え)り こころ根深き「生」を識る ああ われら萩原の子よ |
佐藤一英作詞「愛知県立 尾張病院の歌」 大中 寅二作曲 昭和33年6月制定 1、ミタケ、ノリクラ、ヤリ、ホダカ 遠い垣根の山々よ ああ広い野の護り手よ その身をつつむ白雪の 聖心(ひじりごころ)をわれ学ぶ 日毎白衣をまとう身は 2、木曽の流れの隅もなく 野べを内外うるおして土のいのちはよみがえる しずかに止まぬその力 日毎病む子の手をとりて 3、花咲く道のそのはては 黄金みのりをつげる道 病む子の道は同じ子が あした明るく笑う道 尾張の道の美しさ 尾張病院光る道 4、広い平野の広い空 伊吹山(いぶき)いでくる白雲よ 空のまことの伝え手か 白鳥の羽と変る見て 幸よぶすがたわれ学ぶ ひろい心を ねがう身は |