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’13.03.23(土)
近鉄てくてくマップ三重Q(友歩会親睦ウオーク)
 蟹池・智積養水コース・参加レポート(約9km)
(平成25年3月23(土)天気:晴れ (今日の歩数:31,320歩) 

午前7時30分自宅>JR尾張一宮駅8:22>近鉄名古屋駅8:41発>四日市乗換>近鉄湯の山線・菰野駅9:49着>見性寺
友愛の塔>五郎兵衛地蔵蟹池(三滝川の伏流水が涌く)>三滝川沿い・県橋右折・中央橋・金渓川・桜橋約5km>
湯ノ山街道横断>旧湯ノ山街道>造り酒屋西勝寺(門前の智積養水は名水百選)・椿岸神社>矢合川・矢合橋>
太子堂・東名阪自動車道潜る>上り・竹林雑木林・母子観音像・七福神一生吹山(小公園・標高109.5m)・毘沙門天>
山道を下る(竹林・雑木林)>茶畑・三滝西水源地>高角駅(9146m)>名古屋・尾張一宮駅>帰宅

菰野町観光協会


近鉄湯の山線菰野駅001 10:15

見性寺(菰野藩主土方氏の菩提寺)005

真如山見性寺山門005

見性寺本堂008

土方家の墓(中央・土方雄高の墓)011

土方家の墓013

土方雄氏公室(八重)の墓017

八重の墓から見た土方家の墓018

東町商店街を通り友愛の塔を過ぎる021

五郎兵衛地蔵堂023

地蔵堂前の湧水池024

地蔵堂内部026

小川に流れる湧水と池の鯉029

小川の水がきれいだ030

小川沿いに歩く背後の山は御在所岳032

智積用水の水源地・蟹池034

蟹池の湧水は三滝川の伏流水035

御在所岳遠望036

小川の水がきれいだ037

三滝川沿いに歩く038

智積用水の鯉040

智積用水041

西勝寺042

西勝寺本堂043

西勝寺前の智積用水044

智積町の造り酒屋048

伊藤酒造の空き地で昼食050

販売店049

販売店内051

智積用水の鯉を見ながら歩く059

椿岸神社061

大師堂063

一生吹山に登る(標高109.5m)064

竹林を過ぎる065

雑木林を登れば山頂は公園になっている066

一生吹山毘沙門天068

一生吹山の七福神072

山頂の公園で休憩074

一生吹山公園の御大典記念碑076

ゴールの高角駅に着く14:11 079 Topへ

真如山見性寺内土方雄高の墓碑kokat010

西勝寺の楠の古木t054 Topへ
見性寺解説kokaw006    Topへ
見性寺と土方家墓地の解説kokaw007    Topへ
土方家墓地見取り図kokaw007    Topへ
五郎兵衛地蔵開設kokaw027    Topへ
蟹池説明kokaw033  Topへ
雨池用水の大師堂説明kokaw063  Topへ
一生吹山由来説明kokaw067  Topへ
一生吹山毘沙門天由来 説明kokaw069 Topへ

「菰野町」(Wikipedia)

菰野町は、三重県の北西部、鈴鹿山脈の東山麓に位置する町であり、人口は町としては県内一である。
町内西部にある湯の山温泉や御在所岳には毎年多くの観光客・登山客が訪れる。
北部にある田光のシデコブシ及び湿地植物群落は2005年(平成17年)3月2日に国の天然記念物に指定された。

菰野藩・藩史参照   ★Topへ
鈴鹿山脈登山日記webから


見性寺(wikipedia)    Topへ
見性寺(けんしょうじ)は、三重県菰野町菰野にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
(〒510-1233)三重県三重郡菰野町大字菰野158 (059-394-1755)

 概要 
菰野藩主土方氏の菩提寺として、1644年(寛永21年)に菰野藩第2代藩主土方雄高が三霊禅師を尾張国より招きこの地に創建したのが始まり。臨済宗妙心寺派に属する禅宗の寺院である。境内には土方家歴代藩主の墓がある。
寛文9年(1669)火災により庫裡が焼失し、享保11年(1726)藩主5世雄房が本堂、庫裡、山門を再建立する。
見性寺・Web 菰野藩(藩史参照)土方家墓地参照

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見性寺(フリー百科)
寺宝
本尊 釈迦如来坐像 
仏像 弘法大師座像、阿弥陀如来像、弁天尊天(鈴鹿七福神)、黄檗の高僧木庵 
書籍 即非 
菰野藩歴代藩主の愛用品 
歴代藩主の墓地(菰野町文化財指定) 
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山号 真如山 
宗旨 臨済宗 
宗派 妙心寺派 
本尊 釈迦如来坐像 
創建年 1644年 
開基 土方雄高 
正式名 真如山見性寺 
文化財 菰野藩主土方家墓地 
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智積養水(名水百選)(Web)          Topへ

下記はwikipedia参照。
智積養水(ちしゃくようすい)は、三重県三重郡菰野町から四日市市智積町にかけて流れる用水路である。
昭和60年(1985年)に環境庁(その後の環境省)選定の名水百選[1]に選ばれている。
「概要」
智積養水の起源は定かではないが1712年(正徳2年)に四日市陣屋代官「原清左衛門正和」が、三十三間筒
を伏せ替えたとの文献がある。1777年(安永6年)に森村と智積村の水論訴訟が起こり10年間の後和解する
も、以後も農業用水をめぐって旱魃度に水争いが繰り返されたが、現在も、地域の最も身近な生活用水・
防火用水として利用されている。
 江戸時代に敷設された灌漑・生活用水で、智積用水とも言われるが、「養水」の字を当てる。全長は2.5km。
三滝川の伏流水が湧出する菰野町神森の蟹池に源を発し、金渓川の川底を伏樋(三十三間筒)で潜らせ、
智積町内を流れ、三滝川支流の矢合川に注ぐ。また、智積町内では寺井用水が分流し、三滝川に注ぐ。
 智積町内では水路が整備されて鯉が泳ぎ、桜駅前には智積養水記念公園が造成されている。Topへ

「蟹池」(Web) 「蟹池」は、智積養水の水源地ですが、菰野町神森の所有です。  池の周り一面には水田が広がり、西方を見ると、水田の向こうに家並みが連なり、そのまた向こうには 鈴鹿山脈が雄大にそびえています。 その鈴鹿山脈に降った雨や雪が、地下にしみこんで地下水となり、 この神森字北森でひょっこり湧き水となって噴き出した所が池となり、「蟹池」と呼ばれています。  実は、この蟹池は、この辺り一帯の水田区画整理がされる以前、今の場所から200m西方にありまし たが、区画整理の都合上、ここへ移動されました。  古い池は、とても深くて今よりもっと盛んに水が湧き上がっていたそうです。 智積養水は、この「蟹池」の湧水を、智積町内に引いてくるために敷設された全長1.784メートルの用水 です。延々と送られてきた水は、智積町の水田45町(446平方キロメートル)あまりを灌漑しています。 智積養水の水源地が、隣町のこの「蟹池」であることが、江戸時代より農業を営む智積の人々の泣き所で はありましたが地元に水源を持たない悲しさ、水を分けてもらう有難さはひとしお身にしみていました。 Topへ
一生吹山の歴史(Web解説) 世はまさに戦国時代、天文8年(1539年)夏7月9日、ここ桜地区は戦場となりました。  わが郷土の戦国武将・佐倉城主小林豊前守重則(こばやしぶぜんのかみしげのり)は、鈴鹿郡川崎 (現・亀山市川崎町森字殿町)の峯(みね)城主峯盛定(みねもりさだ)が進撃して来たのを、一生吹山 (いっしょうぶきやま)の砦城で迎え撃ちました。  が、やがて死守する砦の陥落危うくなり、止む無く生水川(しょうずがわ)(現・矢合川(やごうがわ)) の北岸まで後退して、追ってきた峯軍と川を挟んで矢を射合う激戦となり、ここを先途と死力を尽くす も、何分多勢に無勢、頼み綱の千種氏から援軍も来ないまま、刀折れ、矢尽き、力尽きて弱冠18歳の 城主小林重則は哀れ自害して果てました。 この時、戦場となった「一生吹山(いっしょうぶきやま)」の山上には、昭和末期に桜地区指定史跡と定 められ、「一生吹山の歴史」という説明板が建てられました。 私たちは、皆様の歴史的興味を中世に いざない、皆様一人一人がこの戦の様子を後世へ伝える「語り部」となって頂きたいと願っております。 ところで、当時「佐倉城」または「桜城」のいずれの表記が用いられたか不明です。  江戸期に書かれた『保曽井物語』、『勢陽五鈴遺響』、『紀伊続風土記』、『伊勢名勝志』などの文献 資料と、小林家の御子孫、『四日市市史』、そして桜郷土史の先学故山田教雄氏も「佐倉城」と表記さ れているので、これに準じて本稿も「佐倉城」とします。 Topへ −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 「デジロ祭と神社合祀」 一生吹山城は出城(でじろ)とも呼ばれ、何時頃か定かではありませんが浅間神社 (祭神木花佐久夜比賣命(このはなのさくやひめ))が祀られました。 城主小林重則が自害した7月9日に因んで、村人によって毎年7月1日に「デジロ祭」が催され、若くし て逝った重則の痛恨の情を慰霊する行事が明治時代まで続けられていました。 ところが、この浅間神社は、明治42(1909)年に明治政府の政策で「一村一社の神社合祀」が桜地区で も実施されたため、椿岸神社に合祀されました。 「毘沙門天を勧請」 昭和3(1928)年、有志によって今度は信貴山より毘沙門天が勧請(かんじょう)されました。 それ以来、毎年4月3日の「毘沙門さんの例祭」には植木市が開かれ、近郷からも人々が集まって大い に賑わい、殊に昭和の高度経済成長期には、世話方と住民が一致協力して花火も打ち上げられるほど盛 大なお祭りでした。 平成の今もなお4月3日の例祭は粛々と執り行われていますが、以前ほどの賑わいはなくなりました。 詳細は、下記Web記事参照 「一生吹山の歴史」   Topへ
「西勝寺」 浄土真宗本願寺派西勝寺は、親鸞を始祖とした浄土真宗系のお寺。 西勝寺内へと入ると、寺前を流れる水路(智積養水)同様に綺麗に整備されている。 西勝寺の入口前には掲示板があり、そこではイベントなどの告知も行われている Topへ
「椿岸神社」(Web参照) 「境内掲示」 延喜式内  椿岸神社由来 椿大神社別宮 天之鈿女命本宮 主祭神 天之鈿女命 相 殿 太玉命     天之児屋根命 当社の主祭神天之鈿女命は天の岩戸開きの神話の中で御活躍された神様として知られ、天孫 (天照大神の御孫)瓊々杵尊が日本国土に天降り給う時供奉し、天孫一行を天之八衢に出迎 えた地祇猿田彦大神(椿大神社の主祭神)と共に日向の高千穂峯に導き、我が国肇国の基を 築かれた神様であります。 その後、猿田彦大神と夫婦の契を結ばれ、相共に此の伊勢国、鈴鹿椿ヶ嶽高山短山の霊地の 里にお帰りになり、猿田彦大神の妻神、椿岸大明神として鎮祭りされ、今日に至っておりま す。鎮魂の神、芸道の神として其の霊働は脈々と輝き、芸能を始め茶道、華道、書道と凡ゆ る技招ぎの向上、また縁結び、夫婦円満の御守導、霊験あらたかで古来より信仰されており ます。 当社に伝わる「椿岸神社縁起」によれば、この別宮を猿田彦大神を祀る本社「上椿社」に対 し「下椿社」と称し垂仁天皇の御代二十七年本社御創建と共に奉斎された延喜式内の古社で あります。 秋の例大祭には本社より神輿(猿田彦大神)の渡御(神幸祭)があり、鈿女本宮に御旅を され、翌日には還御(還幸祭)が行われます。 一、当社には聖武天皇勅願による日本最古の獅子神御祈祷神事(獅子舞)が伝承され、神面 は猿田彦大神、獅子頭は天之鈿女命の化身として、三年に一度各地を巡舞し奈良朝以来千三 百年の伝統を今に伝えております。この神事は地元氏子神役により神勤奉仕致しております。 (県無形文化財) 一、室町時代謡曲「鈿女」が当社に伝わり演能されておりましたが中絶、後四百年ぶりに 金剛流宗家によって神事能「鈿女」として復曲され、毎年春の例大祭に演能されます。 伊勢国一之宮椿大神社 神世相伝 山本神主記 Topへ
菰野藩・藩史(goo wikipedia検索)         Topへ 藩祖は土方雄久の長男・土方雄氏である。雄氏は織田信雄、豊臣氏に仕えて伊勢菰野に1万石を 領していたが、慶長4年(1599年)に徳川家康と本多正信の主従が画策した「幻の家康暗殺事件」 の嫌疑をかけられて所領を没収され、常陸国太田に追放となった。しかし関ヶ原の戦い直前に その罪を許され、雄氏は伊勢・近江国内に1万2000石の所領を与えられて菰野に陣屋を構え、 ここに菰野藩を立藩した。第2代藩主・土方雄高は陣屋と城下町を建設し、商工業者を招いて 新たに東町・河原町を新設する。また、藩の体制を整備して藩政の基礎を固めた。 しかし以後の藩主が財政において放漫だった結果、菰野藩の財政は逼迫する。このような状況 を見た第7代藩主・土方雄年は保守的な家臣団を処罰して緩んだ綱紀の引き締めを図ったが、 大坂や駿府の加番勤務、藩内における凶作などの天災から、藩財政は悪化の一途をたどった。 第9代藩主・土方義苗は「臨時準備積立法」を制定して年間225俵の米を一割二分の利で13年間 も積み立てた。さらに質素倹約や経費節減、灌漑工事などを積極的に行なって財政再建を見事 に成し遂げ、文化的には藩校・麗沢館を創設するなどした菰野藩中興の名君であった。 第10代藩主・土方雄興のとき、佐々木惣吉が稲の品質改良に務め、種関取米の栽培に見事成功 した。また、紅屋善左衛門が現れて菰野茶として売出しをはじめ、嘉永年間には大谷九左衛門 が第11代藩主・土方雄嘉の許可を得て、茶園を建設した。 明治4年(1871年)、廃藩置県により廃藩となって菰野県、安濃津県となり、翌年に三重県に 編入された。 年貢の取立てが比較的緩やかだったため、明治維新まで一揆が無かった珍しい藩である。 Topへ


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