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2010.11.13 第9回尾西もみじウオーキング大会参加
天気:晴れ(平成22年11月13日) 今日の歩数:25,705歩

コース:自宅7:10出発(徒歩)→濃尾大橋→一宮市尾西プール駐車場(受付、スタート・ゴール)→
→木曽川尾西緑地遊歩道→起渡船場跡・常夜灯→旧湊屋文右衛門邸(本日公開)→起の大いちょう→
→尾西歴史民俗資料館(イベント)→一宮市尾西プール(全長約5km)>羽島市八神の渡し跡碑・魚勝(昼食)
>垂井町のタルイピアセンター>関ヶ原町の歴史民俗資料館>帰宅

今日は、穏やかな晴天で、参加者数も過去最高の320名ということであった。
あいにく、黄砂の影響もあって、デジカメ写真では霞がかかったような映像が見られた。
しかし、晩秋の秋、全長5Kmをゆっくり、旧交を楽しみながら散策した。
昼食は羽島市の魚勝でとり、その後、垂井町のタルイピアセンターと関ヶ原町の歴史民俗資料館を訪ねた。
友人が町史等を購入するためである。(関ヶ原町歴民より関ヶ原の戦い概要

尾西歴史民俗資料館 尾西商工会 尾西商工会もみじウオーキング大会案内チラシ(PDF)


正面は、わくわくの湯(羽島市)003 7:29

早朝の濃尾大橋を渡る004 7:41

起側から見た濃尾大橋005 7:50

濃尾大橋直下(黄砂の影響?)009 7:52

木曽川尾西緑地(起地点)012 7:55

尾西歴民、もみじまつりの幟013 7:58

木曽川尾西緑地遊歩道019 8:18

受付会場021 8:43

コース説明023 9:08

出発号令024 9:13

グリーンプラザ、パターゴルフ場025

参加者は320名となった026 9:16

濃尾大橋に近づいた029 9:41

起、金刀比羅神社の常夜灯(渡船場)030 9:56

湊屋文衛門邸の暖簾032 9:59

邸内の様子(本日公開)034 9:59

外庭035 10:00

湊屋文衛門邸外観038 10:02

大明神社の大いちょう(天然記念物)043 10:08

歴民でのイベント(西五城木遣り棒振り)048 10:14

水彩画展050 10:16

脇本陣の紅葉051 10:17

箏・尺八演奏053 10:17

木曽川尾西緑地の公園で休憩055 10:35 Top

昭和51年馬飼大橋により廃止の八神渡し跡056 11:19

八神の渡し跡の碑(魚勝西・木曽川堤防下)057 11:19
059

垂井町タルイピアセンター065  Top

関ヶ原町歴民前の関ヶ原合戦400年記念碑069

関ヶ原の戦い概要(関ヶ原町歴民より引用)              Topへ

慶長5年(1600年)9月15日早朝、東西両軍は、前夜からの濃霧のため見通しが利かないここ関ヶ原に陣を構え
ていた。午前8時頃、ようやく霧が晴れたのを見て井伊直政、松平忠吉がまず出陣して宇喜田秀家の隊に向かっ
た。これを見た福島正則の隊は先鋒として遅れてはならじと宇喜田の隊に一斉射撃を開始する。これが戦闘の火
蓋である。先鋒ではないと本田忠勝に咎められた井伊直政、松平忠吉の隊は矛先を島津へ向けた。東軍右翼の黒
田長政、竹中重門、細川忠興らの隊は一斉に石田三成、小西行長の隊を攻撃。左翼の藤堂影虎、京極高知の隊も
大谷吉継の隊と交戦。たちまち関ヶ原全体が戦いの中に包まれ、戦いは一進一退西軍がやや有利であった。家康
は、最初桃配山にあったが、午前10時頃陣場野へ陣を進め全軍を指揮した。
松尾山の小早川秀秋は、焦った家康に鉄砲を自陣へ撃ち込まれ、あわてて正午頃西軍に反旗を翻して大谷吉継の
隊を攻撃した。これを見た脇坂安治、朽木元綱、小川裕忠らも小早川に同調し、三方から攻められた平塚為廣、
戸田重政は相次いで討ち死にし、大谷吉継も自害して果てた。小早川の裏切りで大谷の隊が壊滅すると形勢は逆
転し、ついで小西行長、宇喜田秀家の隊も敗走し、石田三成の隊も奮闘したがついに敗走した。最後に残った島
津義弘(維新)の軍は、僅か200に足らぬ兵で義弘を護り、敵中を強行突破して薩摩へ逃げ帰った。戦闘が完
全に終結したのは午後3時頃だったという。(家康は凱旋の帰路、美濃路を下ったと言われている)

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