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’09.04.04早春の関ヶ原古戦場と歴史を訪ねて
JRさわやかウオーキング参加レポート(12.1km)
(平成21年4月4日(土)天気:曇り後雨

@午前9時10分自宅>JR大垣駅>JR関ヶ原駅受付・S&G>本多忠勝陣跡10:44>脇坂安治陣跡11:10>
 >井上神社11:20>福島正則陣跡11:25>不破関跡11:30>大谷吉継の墓(昼食)11:58>
 >胡麻の郷・エコミュージアム関ヶ原12:47>関ヶ原ウオーランド・麗守都関ヶ原13:06>開戦地13:19>
 >小西行長陣跡13:21>島津義弘陣跡13:27>笹尾山・石田三成陣跡13:40>合戦陣形図13:45>
 >決戦地13:55>徳川家康最後陣跡14:02・歴史民俗資料館14:06・ふれあいセンター>
 >関ヶ原駅14:26(JR所要時間約3.5時間、実質約4時間)(今日の歩数:31880歩)
 東西両軍の陣形図)

関ヶ原ウィキペディア関ヶ原観光ホームページ関ヶ原町関ヶ原古戦場



本多忠勝陣跡10:44(拡大説明)

脇坂安治陣跡11:10(拡大説明)

井上神社11:20(拡大説明)

月見宮大杉(樹齢800年)11:25

福島正則陣跡11:25(拡大説明)

不破関跡11:30

藤古川の桜(拡大歴史説明)11:36

大谷吉継の墓(昼食)11:58(拡大説明)

エコミュージアム関ヶ原12:47

開戦地13:19(拡大説明)

小西行長陣跡13:21

島津義弘陣跡13:27

笹尾山・石田三成陣跡13:35(観光案内)

笹尾山 島左近の陣地13:37(拡大説明)

石田三成陣地13:39

陣地に築かれた竹矢来13:40

石田三成陣跡13:44
笹尾山陣地の石標(拡大説明)

笹尾山の古戦場見晴台と合戦陣形図(左家康)
ここからの眺望はすばらしい。13:45(右下三成)

決戦地13:55(拡大説明)

徳川家康最後陣跡14:02(ここで首実検)(拡大)

関ヶ原町歴史民俗資料館14:06

関ヶ原駅から見た東西両軍の武将14:26

東西両軍の陣形図

「関ヶ原合戦顛末」・・・関ヶ原ウィキペディア(参照)
9月15日、東西両軍は関ヶ原の地に集結した。旧大日本帝国陸軍の参謀本部が編纂した『日本戦史・関原役』に
よれば、東軍7万5,000、西軍10万、合わせて17万を超える兵力が狭い関ヶ原の盆地に集結したことになる。
西軍方は三成の拠る「笹尾山」、宇喜多秀家の拠る「天満山」、小早川秀秋の拠る「松尾山」、そして毛利秀元
が布陣する「南宮山」のラインで東軍を囲む鶴翼の陣を敷く。
明治の世に軍事顧問として来日したドイツのクレメンス・メッケル少佐は関ヶ原における両軍の布陣図をみて、
即座に西軍の勝利を断言したという。しかし、東軍は鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くを内応させて
おり、本来ならば圧倒的に不利である鶴翼の陣の奥深くに陣を置くことができたのである。
関ヶ原は早朝から深い霧が立ち込め、隣の軍の様子も侭ならない。そんな中、家康から先鋒の約束を取り付けた
福島正則は、じっと開戦の火蓋を切る機会を伺っていた。
濃霧の中で両軍は2時間ほど対峙し続けていた。やがて、霧も薄くなってきた頃、福島隊の横を井伊直政と松平
忠吉の小隊が通り抜けようとしていた。家康から先鋒を任されたはずの福島正則の家臣可児才蔵が呼び止めて詰問
するが、「物見」と称して福島隊の前方へ張り出した。直政の小隊は、西軍の主力である宇喜多隊に向けて発砲、
ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。対する宇喜多隊も直ちに応射、関ヶ原はたちまちのうちに激戦の様を呈
した。福島正則隊6,000や井伊直政、松平忠吉らの隊は 宇喜多秀家隊1万7,000に攻撃するも、あっという間に撃退
される。しかし、福島隊らの不利を見た加藤嘉明隊らが宇喜多隊の側面を攻撃。これに乗じて福島隊らも宇喜多隊
に猛反撃を仕掛けるなど、宇喜多隊周辺は関ヶ原での最大の激戦地であった。
黒田長政隊5,400、細川忠興隊5,000は一斉に三成の部隊めがけて襲い掛かる。
三成隊も配下の島左近や蒲生郷舎らが奮戦、大筒を用いて襲い掛かる敵を撃退してゆく。大谷吉継隊4,100と配下
の戸田重政、平塚為広計1,600は、藤堂高虎隊2,500・京極高知隊3,000と死闘とくりひろげる。
小西行長隊6,000は、田中吉政隊3,000・筒井定次隊2,800と交戦。
三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げた。
さらに島津隊に応援要請の使いをだす。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは、宇喜多、石田、小西、大谷
の3万6,000ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に運んでいた。ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000
と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後
を衝けば西軍の勝利は確定的となるはずであった。しかし、島津は使者が下馬しなかったため無礼という理由で応援
要請を拒否。また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、内応済みの吉川広家に道を阻まれ、参戦
できずにいた。
正午過ぎ、家康は、内応を約していた小早川秀秋隊が動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を
加えるように命じる。迷いに迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し松尾山を降り、ここに小早川隊
1万5,000の大軍は東軍に寝返った。ただし、松尾山が標高300メートルに達する山であり、戦闘のさなかに火縄銃
の音が聞こえるのか、また、大谷隊と藤堂隊が激戦を繰り広げていた松尾山山麓に近付くのは容易ではないといった
点から疑問も呈されている[17]。なお、小早川隊の武将で先鋒を務めた松野重元は「盾裏の反逆は武士としてある
まじき事」として秀秋の命令を拒否・離反した。
小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷隊右翼を攻撃する。
吉継は予てから風聞のあった秀秋の裏切りを予測しており、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を
松尾山麓まで押し戻す。ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の
西軍諸隊も[18]小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。
予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し敗北を悟った吉継も自刃して果てた。
大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、激戦が続いてる関ヶ原中央に進軍
を始めた。ここに、関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定した。
小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により、旗本中心の家康本隊もようやく動き出し、東軍は西軍に総攻撃をかける。
そのころ 宇喜多秀家隊は、東軍各部隊から集中攻撃を受け続けていたものの、撃退し続けていった。
しかし、小早川隊らが側面から、東軍の後詰めの部隊からも波状攻撃を受ける。それでもなお宇喜多隊は激戦を繰り
広げたが、とうとう宇喜多隊の各戦線が完全に崩壊し壊滅。宇喜多秀家は寝返った小早川秀秋を討とうと決心し、
小早川軍に突撃して戦死しようとするが、家臣の明石全登らに説得され、やむを得ず伊吹山中に敗走する[19]。
小西隊も敗れ、敗走。南宮山に布陣していた毛利らも西軍の敗北と知ると、戦わずに伊勢街道方面へ逃亡し始めた。
石田隊は宇喜多・小西が敗走したあと、東軍部隊から総攻撃を受ける。圧倒的に不利であったにも関わらず、石田隊
は持ち堪えていたが、とうとう壊滅した。
こうしたなか、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲される。ここにおいて、いわゆる島津勢の
「敵中突破退却戦」が開始される。島津義弘隊1,500(実際は陣防衛戦で300人程度まで激減していた)が一斉に鉄砲を
放ち、家康本陣側を通り抜け撤退を開始。この「前進撤退」には福島隊ですら腰が引いたとされる。また、追撃した
部隊のうち井伊直政と松平忠吉は狙撃され負傷し[20]、本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬した。
島津隊は島津豊久や長寿院盛淳(阿多盛淳)、肝付兼護ら多数の犠牲を出しながらも80前後の手勢となりながらも
撤退に成功した。盛惇は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、
武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹したと言われている。


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