(平成26年)’14.03.22(土)近鉄てくてくマップ(友歩会親睦ウオーク)
津・一身田寺内町コース参加レポート(約7km)
(平成24年3月22(土)天気:晴れ (参加者:17名)
午前7時30分自宅>JR尾張一宮駅8:12>近鉄名古屋駅8:41発松坂行き急行>津駅9:50集合>津・偕楽公園>県美術館>
旧御堂筋>一身田寺内町(いっしんでんじないちょう)(東西500m南北450mの環濠で囲まれる範囲)>専修寺・御影堂>
毛無川沿いの田園地帯>高田本山駅(約7km)>名古屋・尾張一宮駅>帰宅 (今日の歩数:27,483歩)
★コースマップ(PDF参照) ★Web検索欄 ★高田本山涅槃図(★「解説」 )
近鉄名古屋8:41発 津9:46着001 |
津駅近くの偕楽公園にあった巨古木 |
偕楽公園の説明を見る006 |
部田(へた)の常夜灯013 |
部田の常夜灯の説明 |
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上津部田城址公園018 |
上津部田城址公園019 |
上津部田城址公園の説明 |
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高田本山専修寺へ029 |
専修寺山門031 ★Top |
専修寺御影堂040 |
唐門041 |
専修寺の宝物t322w036 |
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専修寺の如来堂041 ★Top |
専修寺の地泉回遊式庭園063 |
専修寺の御影堂説明t322w044 |
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専修寺の境内案内図t322w054 |
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まちかど博物館を見学する071 |
まちかど博物館073 11:11 |
まちかど博物館の古い時計たち077 |
まちかど博物館のアンティーク道具類081 |
まちかど博物館(岡田屋)083 |
毛無川を町の外濠として利用した事の説明090 |
毛無川に架かる常磐橋091 |
高田本山駅に13:11頃着093 ★Topへ |
高田本山所蔵 仏涅槃図 (縦5.5m横4m) ★Topへ 縦5.5m横4mという全国的にも珍しい巨大な涅槃図。江戸時代後期の作と考えられるが作者は不詳。円山応挙の筆という言い 伝えがあるだけですが、応挙派の作品であることは間違いないと考えられている。(解説より) 「解説」 ★Topへ 「釈尊の入滅を描く」 お釈迦様は、35歳で悟りを開いてから45年間、インド各地を行脚して仏法を説き広められました。そして80歳になって、生まれ故郷へ向かう 途中で、純陀という人が布施として差し上げた茸に中毒して体調を崩し、クシナガラの跋提河のほとり、沙羅双樹のもとでなくなられました。 その模様は「涅槃経」という経典に記されていますが、それに基づいて描かれたのが仏涅槃図です。 「大いなる死の造詣」 涅槃というのは、梵語のニルバーナを漢字にあてはめた語です。このニルバーナというのは、もとは「消滅する」という意味で、この場合、 すべての煩悩が消滅して悟りを完成させた境地を指しています。釈尊の死を「涅槃に入る」というのはそのためです。ある美術史家は、 仏涅槃図を「大いなる死の造詣」と言っています。画面は中央に、宝台に横たわるお釈迦様を描きます。「涅槃経」に記すように 「頭北面西右脇」で、涅槃の境地に入られた証拠に、前身が輝いています。枕許に包みが置いてありますが、これは托鉢に廻るときに、 施物を受けるための鉢を包んだものです。 「4組の沙羅双樹」 宝台を囲んで生えているのは沙羅の樹で、2株づつ計8本あります。この樹は常緑樹なのですが、釈尊の死に際して突然白く変色した というので、この画でも向かって右側3本は葉が白く変色しており、中央の2本も白くなりかけています。「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を あらわす」という「平家物語」の名文句は、この光景に依っています。沙羅の樹の間から見える波は跋提河で、空には満月が輝いています。 釈尊入滅は2月15日でしたから満月なのです。 「駆けつけようとする摩耶夫人」 画面右上部に、雲に乗ってこの場へ向かっている一団があります。中央が摩耶夫人で、4人の天女が付き添っています。摩耶夫人は釈尊の 生母で、釈尊を出産して7日後に亡くなり、刀利天という所に生まれ変わっておられましたが、釈尊の死を聞いて、刀利天から駆けつけて来 ようとしておられるところです。先導しているのは釈尊の弟子阿那律尊者です。 「悶絶する阿難尊者」 宝台の手前で、手を投げ出して倒れているのは阿南尊者です。色白の美男子で、いつも釈尊の側近に仕えていました。そして釈尊が 「わたしはこれから涅槃に入る」とおっしゃったとき、その意味がよく分からず、お引き留めしなかったために、涅槃に入られてあとからそれを 後悔し、嘆き悲しんで気絶してしまったのでした。傍らにいる人が、気絶した阿難に水をかけて、蘇生させようとしています。その背後で、 何かを釈尊に捧げているのが純陀です。先に自分の布施物が釈尊を中毒させたことを後悔して、代わりの食べ物を差し出しているのです。 「釈尊の足をさする人物」 宝台に身を乗り出して釈尊の足をさすっているのは、須跋陀羅という比丘だといわれています。120才で、釈尊のお説法を聞くためにここで 待っていたのです。それを知った釈尊は、最後の気力をふりしぼってお説法をなさいました。この人は、釈尊の45年の旅をいたわって、足を さすってあげているところです。 「お説法を聞きに集まった動物たち」 釈尊の最後のお説法があるというので、たくさんの動物たちが集まってきました。まるで動物図鑑を見るように、いろんな動物が描かれてい て、仏画の中で涅槃図だけに見られる特徴です。50種もあるのではないでしょうか。虎や象、水牛といった日本には棲息しない動物や、 空想の動物も描かれています。マムシのような人間に危害を与える動物もいます。彼等は平常は互いに喧嘩したり、喰いつ喰われつしたり しているのですが、このときばかりは争うことなく、みな一様に釈尊の死を悲しんでいます。馬はひっくり返って泣いています。 また池があって、魚や水鳥が描かれていますが、これは一般の涅槃図にはほとんど見かけない珍しい図柄で、この涅槃図の特色です。 「江戸時代丸山派画家の作か」 画面は縦5m50,横4mという、全国的にも珍しい巨大な涅槃図です。しかも豊麗な濃彩を用い、実に精緻に見事な画技で仕上げられて いて、名品と言えましょう。江戸時代後期の作と考えられていますが、残念ながら誰の作品かわからず、円山応挙の筆という言い伝えがある だけです。しかしこの描写手法から見て、応挙門下の長沢廬雪かその一派の作品であることはまちがいないと考えられています。 (平松令三) ★Topへ |
偕楽公園(Web) ★Topへ 公園の歴史 この付近は、もと「下部田(しもべた)山」あるいは「御殿(ごでん)山」と呼ばれ、藩主の鷹狩り場の 休憩所の御殿が建てられていたといわれる。承応年間(1652〜1655)には藩士に功労をねぎらうために、 遊息の地として分け与えられたという記録がある。 11代藩主藤堂高猷(たかゆき)は安政3・4年この地を家臣から買い上げて、ここに山荘造成を行なった。 「御山荘」と呼ばれたが、偕楽園の名称は、園内の亭舎に「偕楽園」の編額が掲げられていたことによる もので、「人々が偕(とも)に楽しむ」という意味からきている。 明治4年(1872)の廃藩置県後、この土地は国有地となり一時荒廃したが整備して明治10年(1877)4月、 「三重県公園」として開設された。 翌年9月園内において「三重県内物産博覧会」が開催され、明治20年 (1887)には倶楽部が建設された。明治40年(1907)には第9回関西府県連合共進会が開催され、4月1日 から60日間に78万人の見物客で賑わった。★Topへ 津城跡(Wikipedia) ★Topへ 概要 津城は三重県津市丸之内にあり、津市街の中心部に位置する。北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀 としていた。江戸時代初期に築城の名手・藤堂高虎により近代城郭として大改修され津藩の藩庁となった。 江戸期の津城は中央に内堀で囲まれた本丸と、それに付属して東丸・西丸があり、本丸・東・西丸を取り囲んで二の丸が 配された輪郭式の平城であった。 現在の城跡は「お城公園、お城西公園」として整備されている。また、その他の城址には津市役所や裁判所、津警察署 などが建ち並んでいる。 沿革 ]現在の津市の古称は安濃津(あのつ)であり、平安時代より伊勢国政治経済の中心地となっていた。 鎌倉時代は藤原南家の流れの工藤氏を祖とする長野氏が支配していた。 津城の起源は戦国時代の永禄年間(1558年 - 1569年)に、長野氏の一族の細野藤敦が安濃・岩田の両河川の三角州に 小規模な安濃津城を構えたことに始まる。 永禄11年(1568年)織田信長の伊勢侵攻により織田掃部頭(津田一安)が入城。翌年には織田信包が入城した。信包は 城郭を拡充し、石垣を普請し堀を巡らせて、本丸・二の丸・三の丸を整備した。天正5年(1577年)には5重天守と小天守 を落成した。 豊臣氏の時代になると、文禄3年(1594年)信包は秀吉の命により丹波国柏原へ移され、翌年、豊臣氏家臣の富田一白が 5万石(6万石とも)を与えられ入城した。知高の子、信高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍方の 毛利秀元・長宗我部盛親軍3万の軍勢に城を攻撃された。迎える信高軍は1,300人と劣勢であったため苦戦を余儀なくさ れ、城内の建造物の大半を焼失した。奮戦の末、木食上人の調停により開城となった。しかし、この奮戦により戦後、 江戸幕府より2万石の加増を受けた。 慶長13年(1608年)信高は伊予宇和島藩に移封となり、代わって伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって 入城した。高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備した。以後、明治維新まで藤堂氏の居城 となった。 大坂の役の功により元和元年(1615年)と元和3年(1617年)に5万石ずつの加増を受け、藤堂氏は32万3,000石の大大名 となった。 なお、天守は関ヶ原の戦いで焼失し再建されなかったとされる。しかし、近年の研究では寛永年間(1624年 - 1643年) に描かれた絵図に三重天守と二重小天守が描かれており、これは富田氏が再建したと思われる。 そして、その天守は寛文2年(1662年)の火災で焼失し、幕府への遠慮から再建されなかったと考えられている。 津は江戸期を通じて伊勢神宮参拝の宿場町として栄え「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と 伊勢音頭に謡われた。 明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、以後、建造物は破却された。その後、「お城公園」として整備され、 昭和33年(1958年)に隅櫓が復元された。 現在城跡には藩校有造館の正門の入徳門が移築現存している。 |