2010.05.23 美濃路探訪〜春・尾張編参加レポート(詳細・拡大)
(平成22年5月23日(日)天気:晴れ) Am8:45〜16:30
コース:尾西歴史民俗資料館(起宿)→萩原宿→稲葉宿→清須宿→名古屋宿→宮(熱田)宿
>尾西歴史民俗資料館>帰宅 今日の歩数(26,385歩)
★美濃路のおもな史跡(下記解説参照)★美濃路(wikipedia)★美濃路1★美濃路
★美濃路探策★Network2010美濃路(動画あり)
★一宮市観光協会ホームページ ★一宮市ホームページ ★尾西歴史民俗資料館
★稲沢市観光協会★清須市(★清須市観光協会)★名古屋市★名古屋市観光情報
史跡冨田一里塚 003 |
孝子佐吾平遭難遺跡006 |
萩原商店街のちんどんまつりが行われていた。 美濃路は正面から右へクランクしている 011 |
天満山 正瑞寺本堂 010 正瑞寺前には高札場があった。 |
地蔵菩薩 013 |
馬頭観音(1763宝暦13年建立) 013 |
萩原宿問屋場跡 t016 |
美濃路萩原宿本陣跡 t018 |
荒古山 宝光寺には萩原宿脇本陣を務めた 森半兵衛辞世の句がある 020 |
稲沢市 禅源寺にある琉球王使節随員の墓 家光の旅籠、使節の宿など由緒ある寺院 029 |
勅使門(稲沢市指定文化財) 037 禅源寺の額は朝鮮通信使の洪世泰の筆による |
清須宿本陣跡 明治24年の濃尾地震で倒壊後 正門のみ縮小再建 042 |
洪福山清涼寺 曲がり角に高札があった 045 |
1712年鋳造の時鐘により時が告げられた051 |
清須公園の織田信長像(26歳桶狭間出陣)059 |
屋根神様(右上)がある美濃路一休庵069 |
清須市西枇杷島の問屋記念館075 |
山田家の青果問屋の暮らしを再現078 |
四間道(防火対策)東側を高くし土蔵を連ねた100 |
屋根神様(津島・秋葉・熱田の3社を祀る)106 |
子安地蔵尊109 |
屋根神様(手前)と子安地蔵尊(奥)111 |
熱田神宮(wikipedia)116(散策マップ参照) |
美濃路は熱田神宮で東海道と繋がる121 |
美濃路1790年の道標(東海道・美濃路分岐点)129 宝暦8年と寛政2年に建立 |
ほうろく(素焼きの土鍋)地蔵134 ”ほうろく売り”にまつわる伝説がある。 Top |
宮の渡し公園(桑名宿まで海上7里を渡した) 140 慶長6年家康が新東海道開設の指令をだし、宮から 伊勢桑名へ渡海し鈴鹿を越えるルートが選定された 海路7里故に「七里の渡し」と言われ、常夜灯のある 岸一帯が船の発着場。桑名まで4時間以上かかった |
7里の渡し跡(奥:時の鐘 手前:常夜灯)146 時の鐘の櫓は昭和20年の戦災で焼失後昭和58年に 宮の渡し公園に復元された。常夜灯は1625年須賀浦 に成瀬正虎が建てたものを1654現在地に移転戦災で 焼失後再建された。 |
宮の渡し公園 |
シーボルトが宮の宿で教えた ★Top |
宮の渡し公園の渡船場 163 |
公園から市街を見る 162 Top |
宮の渡し公園(7里の渡し跡(奥:時の鐘 手前:常夜灯)) 164 ★Top |
美濃路のおもな史跡(@〜E)〜尾張編約29.5km〜 ★Top ◎@【起宿】(美濃路)(Wikipedia) (人柱観音・定渡船場跡・宮河戸跡・船橋跡・本陣及び問屋場跡・脇本陣跡) 〜駒塚道道標・冨田一里塚跡・天神の渡し跡・孝子佐吾平の碑・萩原橋〜 ★木曽川の起渡船場のある宿場町。水陸交通の拠点として賑わった。天保14年の起宿は、 本陣1(加藤家)脇本陣1(林家)、家数887軒、人口4,094人、問屋場2(加藤家永田家)。 木曽川は川幅500間余、江戸初期の将軍家や朝鮮通信使の通行時の架橋は270艘以上 の船を繋いだもので、日本最大の規模。(寄船・助郷制度) |
◎A【萩原宿】(美濃路)(Wikipedia) (本陣・問屋場跡)〜高木一里塚跡・中嶋宮・長隆寺〜 ★天保14年の萩原宿は、本陣1(森家)脇本陣1(森家)、家数236軒、人口1,002人、 問屋場2(鵜飼・木全家)。萩原商店街として今日まで存続している。 |
◎B【稲葉宿】(美濃路)(Wikipedia) (禅源寺・問屋場跡・津島道道標・本陣跡・稲葉一里塚跡) 〜国府宮・長束正家邸跡・四ツ家追分・丹羽盤桓子出生地・長光寺(四ツ家追分道標・ ・六角堂・臥松水)・浅野長勝宅跡・亀翁寺・総見院〜 ★天保14年の稲葉宿は、本陣1(原家)脇本陣1(吉田家)、家数336軒、人口1,572人、 問屋場3(原・伊東家、1問屋場2日交代)。街道から少し北にある禅源寺には将軍家光 が宿泊し、朝鮮通信使(洪世泰)が書いた「禅源寺」の扁額や琉球使節副使の西平親方 が書いた漢詩が残されている。 Top |
◎C【清須宿】(美濃路)(Wikipedia) (本陣跡・清涼寺・清洲城跡) 〜五条橋・元須ヶ口一里塚道標・須ヶ口一里塚跡・新川橋橋詰ポケットパーク・瑞正寺宝塔・ ・屋根神様・西枇杷島問屋記念館・枇杷島橋・清音寺・屋根神様・尾州茶屋跡・ 白山神社・大木戸跡・江川一里塚跡・名古屋城・五条橋・四間道・屋根神様・伝馬橋〜 ★天保14年の清須宿は、本陣1(旧林家)脇本陣3(櫛田家、2軒は不明)、家数521軒、人口 2,545人、問屋場1。清涼寺の鐘、神明町両側の旅籠屋・茶屋・置屋・料理屋などが軒を 並べていた。清須宿は当初清洲城下の伝馬町に設けられたが慶長15年の清須越で廃止 され、続く洪水で流失し元和2年桑名町に置かれた。寛文8年の火災で神明町に移った。 |
◎D【名古屋宿】(美濃路)(Wikipedia) (辻の札)〜大須観音・西別院・東別院・古渡城跡・佐屋道標・熱田神宮一の鳥居跡・ ・断夫山古墳・源頼朝生誕地(誓願寺)・白鳥御陵道標・熱田神宮・上知我麻神社〜 ★天保14年の名古屋宿は、尾張藩の城下町で宿高はなく、「伝馬役4ヵ町」で宿役(伝馬役) を勤めた。家数1,157軒、人口4,188人、旅籠・本陣・脇本陣はない。貴顕の休泊には藩 の指示に従った。一般の人馬継立は伝馬番(会)所(渡辺→吉田)(伝馬町筋本町通西南 角)で他の宿と同様に行った。 |
◎E【宮(熱田)宿】(東海道)(Wikipedia) (裁断橋・姥堂・ほうろく地蔵・美濃路道標・赤本陣跡・西浜御殿・七里の渡し跡・常夜燈・ ・丹羽家住宅) ★宮宿は熱田宿ともいい、江戸時代には桑名宿への海上七里の渡し場で美濃路と佐屋路へ の分岐点でもあり、東海道随一の宿場でした。天保14年の宮宿は、本陣2(神戸町の 赤本陣(正本陣)は南部家、伝馬町の白本陣は森田家)脇本陣1、家数2,924軒、人口 10,342人、問屋場1。東海道筋は東の築出町から伝馬町を西進突き当たりの源太夫社 を南下、渡船場まで約1.2km。高札場のあった上知我麻神社(源太夫社・現神宮境内内) から北へ約2.8km美濃路の町並(市場町)が続いていた。 ★美濃編(墨俣・大垣・垂井)はこちらです。 ★Top ★熱田神宮の各ホームページ等参照 (また拡大版内★散策マップ参照)(解説) ★熱田神宮(wikipedia)★熱田神宮動画★熱田神宮★YouTube熱田神宮(動画) ★東海道(wikipedia) ★健康ウオーキング東海道53次 ★東海道一人旅 ★Top |