2010.09.05 世界遺産・熊野古道(八鬼山越え)参加レポート
  (平成22年9月5日(日)天気:晴れ・猛暑日)  Am8:30〜21:30 (詳細版拡大版

コース:羽島バロー駐車場8:30→熊野古道(八鬼山越え)→>帰宅  今日の歩数(26,802歩)
登り口→行き倒れ巡礼供養碑→籠立場→七曲急坂→桜茶屋一里塚→蓮華石・烏帽子石→九木峠→荒神堂→
→荒神茶屋跡→八鬼山峠627m(茶屋跡)→さくらの森エリア652m(芝生広場・展望東屋)→十五郎茶屋跡→
急坂を下る→三木里側登り口案内看板(下山)→三木里松原海岸(海水浴場)→バス停pm5:30発(帰宅21:30)

三重東紀州熊野古道(八鬼山越え)コース案内(HP) 熊野古道(wikipedia)(解説欄へ) 
森さんのコースマップ



尾鷲側登山口 011 12:31Top

八鬼山峠まで3,830m 013 12:31 

山道入口付近(この日も猛暑日)015 12:31

行き倒れ巡礼碑 020 12:44 (拡大説明)

元気な同行者たち 029 12:51 Top

尾鷲方面を望む 030 12:52 

檜の林道を行く(この先籠立場) 031 12:54

巡礼碑が多数見られた 039 13:05 Top

急な石畳@ 042 13:11 

急な石畳を登るA 045 13:20

八鬼山峠 1/3 地点 046 13:22   Top

美しい檜林が続く 049 13:30

暗所で休憩 053 13:43

国史跡 桜茶屋一里塚 058 13:52Top

蓮華石と烏帽子石 066 14:14 Top

このあたり巨石が多い 068 14:15 Top

荒神堂(八鬼山峠)標識 073 14:20

九木峠の石仏(522m) 076 14:29  Top

荒神堂 078 14:30 (拡大説明)

この水が冷たくておいしかった 082 14:39

巨石の間を登る(もうすぐ峠)086

八鬼山峠(627m)の東屋(広場に向かう) 093 Top

健康とゆとりの森(652m展望良し)095 15:00

広場からの展望096 15:00   Top

熊野灘展望102(九鬼水軍発祥の地) 15:07

東屋からの展望103 15:07   Top

熊野灘展望A 100 15:02

八鬼山十五郎茶屋跡の東屋107 15:46  Top

(檜林の下山道)急な坂道が続く112 16:00

名柄一里塚方面へ向かう113 16:01 Top

急な坂道A 114 16:01

幻想的な熊野古道を下山120 16:16   Top

三木里側の登り口案内看板122 16:18

バス停まで急ぐ124 16:19Top

バス停まで急ぐ126 16:20

三木里海岸128 16:37   Top

三木里海岸の松原(右手がバス停)130 16:39

三木里海岸は海水浴場。131 16:39  Top

三木里海岸のクロ松の巨木134 16:49

三木里海岸の松 16:49   Top

熊野古道(wikipedia) 参考 Top詳細版拡大版

熊野古道 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

熊野古道)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称。
              (wikipedia)
 概要 
熊野古道とは、主に以下の6つの道を指す。

紀伊路(渡辺津-田辺) 
小辺路(高野山-熊野三山、約70km) 
中辺路(田辺-熊野三山) 
大辺路(田辺-串本-熊野三山、約120km) 
伊勢路(伊勢神宮-熊野三山、約160km) 

これらの多くは、2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地の霊場
と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産における「遺跡および文化的景観」)として
登録された。なお、その登録対象には紀伊路は含まれていない。

このような「道」が世界遺産として登録された他の例には、「サンティアゴ・デ・コンポステーラの
巡礼路」(文化遺産、スペイン)がある。道が世界遺産として登録されること自体はまれである。

熊野古道の遺構の特徴として、舗装に用いられた石畳が残っていることがある。
石畳が用いられたのは、紀伊半島が日本でも有数の降雨量の多い地域だからである。また、江戸時代
に紀州藩により整備された一里塚が残っている個所もある。

ちなみに、熊野古道の中には、国道や市街地のルートと重複していて吸収されてしまったものもある。
こうしたことが生じるのには紀伊半島の地理が関係している。すなわち、紀伊半島の中央部は、際立っ
た高山こそないものの、どこまでも続く山々と谷に覆われている。このため、古来より交通開発が困難
であり、交通路に適する場所は限られている。現在もこの事情は同様であり、結果として、現代の主要
な交通路は古人の拓いた道に並行し[3]、さらには上述のように重複することとなる。

また、世界遺産に登録されたものが熊野古道の全てではないことにも留意する必要がある。
これは、熊野詣それ自体の盛衰もあって正確なルートが不明になっている区間があること、歴史的な
変遷から生じた派生ルートがありそのすべてが対象となっていないこと等による。
なお、そうした「忘れられた」ルートを再発見しようとする地元の動きもある。

 歴史 
熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地であった。
907年の宇多法皇の熊野行幸が最初と言われる。
熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野行幸からと言わ
れている。白河上皇はその後あわせて9回の熊野行幸を行った。これにより京都の貴族の間に熊野詣が
行われるようになった。その後、後白河上皇も33回の熊野行幸を行っている。

江戸時代に入ると、伊勢詣と並び、熊野詣は、広く庶民が行うようになったといわれている。一時は、
熊野付近の旅籠に1日で800人の宿泊が記録されたこともあったようだ。
明治維新後、神仏分離令により熊野古道周辺の神社の数は激減。熊野詣の風習も殆どなくなってしまった。

熊野古道自体は、大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路として使用されつづけた。

 九十九王子 
熊野古道(特に紀伊路、中辺路)には大阪の基点であった淀川河口の渡辺津(窪津、九品津)から熊野三山
までに100近くの熊野権現を祭祀した九十九王子があった。現存するものは少ない。
鳥羽水軍と九鬼嘉隆についてはここをクリックしてください。(詳細解説あり)    Top
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八鬼山越えコースマップ参照    (詳細版拡大版


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