羽島市 松浦・大浦線(円空通り)の円空仏たちと
羽島市及び★美濃竹鼻祭山車の案内(H22年5月3日)
★歴史民俗資料館解説から★真如山本覚寺(史跡等説明から)★下記(羽島市概要)参考欄参照
参考ホームページ:★羽島市歴史民俗資料館★羽島市★竹鼻まつりのHP
★竹鼻別院 ★美濃竹鼻祭山車の案内(H22年5月3日) ★美濃竹鼻まつりの山車
(羽島市円空顕彰会の作品)
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★羽島市歴史民俗資料館の学習資料から抜粋 ★Top 「羽島市」 羽島市は岐阜県の西南部に位置し、東は木曽川を境として愛知県に接し、北は岐阜市・羽島郡、 西は長良川を隔てて海津郡・安八郡に接し、南は木曽川・長良川の併流をなすV字形に囲まれ ています。 このような位置にある羽島市一帯は、海抜5mの平坦地帯であるため、明治の中頃まで出水の たびに洪水に悩まされ続けてきました。こうしたなかで人々は、集落毎に輪中を形成し、水屋 を建設してその害を逃がれるよう努力してきました。一方、このような条件の中で、地質は 肥沃な砂質壌土となり、そ菜・果樹栽培に適した地域となりました。また、本市の織物の発祥 は古く、今からさかのぼること400年前の文禄時代の木綿織に始まり、これが日本の綿織物の 始めとまでいわれています。 以後、明治末期まで竹鼻銘仙・新銘仙・竹鼻紬などが完成されるに至りました。 特に昭和期に入って、一段と隆盛を極め、ことに毛織物は県内の80%を、化繊は20%を 生産するまでになりました。現在では、愛知・大阪に次ぐ全国第3位の毛織物の産地とまでに なりました。しかし、その後、東南アジアや中国の軽産業の発展と共にだんだん苦しい状況に 追いやられて斜陽産業のひとつに数えられるまでになり、大きな課題をかかえています |
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★(参考)羽島市歴史民俗資料館から★Top 羽島市の概要 羽島市は、応仁年間(1467〜1468)に作られた と伝えられる竹ヶ鼻城を中核にした町と言われ、羽島に は、古い町並みや寺院・川があり、緒情あふれる史跡の 町となっています。 本市は、昭和29年(1954)4月1日に、1町9か 村が合併し、県下9番目の市として誕生しました。 その時の人口は、3万8千人余でしたが、現在は6万6 千人余となり、大きく発展しました。 市には中央部に東海道新幹線が通り、それと平行して 名神高速道路が東西に走り、県の玄関口としての様相を 色濃くしています。 また、南北には、名鉄電車、岐阜羽島道、南濃線などが 通り、木曽川や長良川には橋もかけられ、外部とのつな がりもよく、県産業の中核地としての役割が強く期待さ れています。 〔人口〕 ・世帯数・・・19,920 ・人口総数・・66,323人 ・人口密度・・1,231人/1キロ平方メートル 〔気象〕 ・年平均気温・・・・・・15、2度 ・最高気温・・・・・・・35、0度 ・最低気温・・・・・・・−5、0度 ・年間降水量・・・・・・1,691、5cm 〔位置〕 羽島市は、県の西南部に位置し、東は木曽川を境と して愛知県に接し、北は岐阜市、羽島郡、西は長良川 を隔てて海津郡・安八郡に接し、南は木曽・長良川の 併流をなすV字形に囲まれています。 市内全域が海抜5mの平坦地帯であります。 ・面積・・・・・・53、64キロ平方メートル ・平均海抜・・・・5、42m 〔市章〕 昭和29年(1954)8月1日に制定された市章は 竹ヶ鼻城主の紋所と羽島市の「羽」を図案化したもの で、円満な市政を象徴したものです。 市の木(かいずかいぶき) 市の花(美濃菊) | 竹ヶ鼻城の歴史 ★Top 応仁年間(1467〜1468)に作られ たと伝えられる竹ヶ鼻城は、町のどの位置 に如何なる程度のものであったのだろうか。 明確にこのことを記しているものは、一つ もないが、大体の位置は、竹ヶ鼻町上城、 下城両町からその裏にかけて構築されてい たものと推定されます。 城の規模は、城というよりもむしろ砦とい った方が適当と思われます。 城に係わる図面などは1枚も残存していま せんが、金沢市兼六公園の宝物館にある 屏風に竹ヶ鼻城が描かれ、城の規模を知る 唯一の資料となっています。 その屏風絵によると、竹ヶ鼻城は、城郭の 奥の木立に高く石垣を積み、その上に二層 の天守閣を思わせるような建物があり、屋 根は瓦ぶき。その斜め左前には、平屋建て の櫓様のものが一棟建ち、その下に2・3 の家屋が立ち並んでいる。 その周りは、 真っ白な城壁が取り囲み、斜め北向きに 城門があってその前に木橋が架けられ、堀 が全体をとりまいているという状況でした。 こうしたことから竹ヶ鼻城本丸があった 場所は竹鼻別院の北西に位置する松山大浦 線沿いであったと思われます。 平成8年までは、この道路の北にある畑に 「本丸跡」の石碑が建っていましたが、 現在は、当資料館の西南隅の地に移動され ています。 さて、この城の構築者が誰れであったか ということであるが、第1代の城主、竹腰 伊豆守尚隆であろうと言われていますが、 明確には定かでない状況です。 |
竹鼻別院(Wikipediaへ) ★Top 沿革 嘉禎元年(1235年)、親鸞が東国より帰京する際に 三河国に立ち寄り、住民に説法していることを聞い た尾張国葉栗郡門間庄[1]の住人9名(後の河野九門 徒)が帰依し、尾張国葉栗郡木瀬に草庵を建立した のが始まりとされる。 文明2年(1470年)蓮如がこの地を訪れた際、この 草庵を再興。新加納[3]に移転し「河野御坊」と名 づける。当時、この地域[4]では、浄土真宗に改宗 した寺院が多く、蓮如の足跡が多く残されている。 慶長9年(1604年)、教如により新加納から美濃国 羽栗郡竹ヶ鼻村に移転し、時期は不明だが「専福寺」 に改称している。尚、河野御坊の一部は中屋(現各 務原市)に移転し、河野西入坊となっている。 宝暦10年(1760年)、現在地に移転する。 文政5年(1822年)、本堂を再建する。 明治19年(1886年)、竹鼻別院と改称する。 明治24年(1891年)10月28日、濃尾地震で罹災し、 堂宇が倒壊する。仮本堂を建立する。 大正11年(1922年)、再建される。 竹鼻別院のフジ ★Top 県・市の天然記念物に指定されている竹鼻別院のフジ は、樹齢250年以上の古木です。 しかし、目通り周囲2、8m、枝張り東西33、0m 、南北15、0mに達し、木の勢いは十分にあります。 そして、例年5月上旬、四弁薄紫の蝶形の花を総状 花序に垂れて咲き、その優艶な長い花序は、晩春を 飾るにふさわしい姿で、大勢の人々に「別院のフジ」 として親しまれています。 ★円空通り、別院のフジ、佐吉大仏はこちらも ご欄ください。 | 真如山本覚寺(史跡等説明から)★Top 当山は、福井県永平寺と横浜市総持寺を2大本山と する曹洞宗のお寺。永正年間(1504〜1520)の頃、 時の領主・不破綱広源六公が始祖・本覚寺殿大雲義 沢大居士のために、一宇を創建したのが始まり。 竹鼻城主の菩提寺といわれる由縁です。 その後、当山は小牧長久手の戦い、関ヶ原の戦いの 戦乱、安永三年(1773)の大火、明治24年(1891) の濃尾大震災などに見舞われ、そのたびごとに倒壊・ 焼失、復興・再建を繰り返し、現在の伽藍は大正4年 (1915)に建立され、第二次世界大戦の戦火を免れ、 今日を迎えています。 本尊は宝冠釈迦牟尼如来、本堂内には十六羅漢像の 他に少なくとも江戸期に製作された125体の震災の傷跡 が痛ましい羅漢像が祀られ、天井には幕末の勤皇家で 京都の大和絵師であった浮田一恵による八方にらみの 雲龍(岐阜県重要文化財)が描かれています。この板 絵は濃尾大震災により破損したのですが、本堂再建の 際に森村宜稲画伯によって復元されたものです。 当山には同画伯による八面の松の襖絵もあり、期間限 定で展示されています。 本堂の左手奥には不破家伝来の・・・竹鼻稲荷大明神 が祀られ、多くの人々の信仰を集めている。 また、庫裡の裏手にある境内墓地には美濃聖人・ 永田佐吉翁(1701〜1789)の墓所(岐阜県指定史跡) がある。 なお、境内の万霊塔上には満面に笑みを湛えられた お地蔵様を始め、如意輪観世音さまや十一面観世音様 が祀られ、その周りや稲荷堂の周辺には百数十種の色 とりどりの牡丹が植えられ、4月中旬から5月の始め まで、参詣者の目を楽しませています。 |
竹鼻別院のフジ@hfm017(2010.4.25) |
竹鼻別院のフジAhfm008(2010.4.26) |
美濃竹鼻まつりの山車曳き揃え(この平成21年度の写真は川町・中町・上鍋屋町・下鍋屋町・ 福江町・新町・上町の7両で毎年半数ずつ交代で出されている) (平成22年は6両で下の図参照)★Topへ hasiw190 |
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美濃竹鼻まつりの山車(平成22年は宮町・上城町・下城町・今町・本町・大西町の6両) ★Top |
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羽島市 松浦・大浦線(円空通り)の山車曳き揃え配置図 ★Topへ |