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友歩会例会史跡巡りPart3 笠松 羽島 拡大版
 (平成22年10月2日(土)天気:晴れ) (10.2の歩数:33,930歩、参加者59名)

羽島市観光協会 羽島市 美濃路マップ(美濃路の主な史跡:垂井〜起〜宮宿まで)

(羽島市)
>正木小学校史跡一里塚跡>羽島農協前の湛水防除碑>円空通り>八剱神社(竹鼻山車説明)>
>竹鼻小学校内の佐吉像>本覚寺(史跡標柱)・本覚寺絵天井・鐘楼>永田佐吉の墓>本覚寺本堂>
>竹鼻別院>格子戸の町並み(菱田邸・小宮山邸)>佐吉大仏>永照寺本堂(付録)>
>大仏児童公園(解散・羽島市役所前駅)>帰宅 (コースマップのPDF

(解説欄)
歴史民俗資料館解説から真如山本覚寺(史跡等説明から)山車竹鼻別院
竹ヶ鼻城の歴史 八剱神社友歩会の例会案内参照) 美濃路宿場一覧


木曽川堤防(羽島側)の彼岸花 kh031

尾濃大橋付近の彼岸花(猛暑で白化?)kh036

尾濃大橋 9013(Sコース)

正木小学校史跡美濃路一里塚跡(宿場一覧)065

羽島農協前の湛水防除碑067(拡大説明
洪水を木曽川に排水

八剱神社070(美濃図誌) Top
祭神は日本武尊

八剱神社拝殿の天井絵078

竹鼻祭(山車)の説明(八剱神社内)072

八剱神社蔵の江戸前期木造の→  kh043

狛犬1対は岐阜県重要文化財  kh044

八剱神社 074

竹鼻小学校内の永田佐吉翁像9017

真如山本覚寺(絵天井・佐吉墓)074(美濃図誌)

本覚寺の各史跡標柱075(解説) Top

本覚寺の鐘楼077 手前は万霊塔
鐘は竹鼻城主杉浦五左衛門寄進

本覚寺の本堂078   Top
本堂の絵天井雲龍は江戸末期浮田一恵の作品

本覚寺絵天井106(本堂内大正3年補修)(拡大)

永田佐吉の墓(市文化財・本覚寺内)327114Top

京都の大和絵師であった浮田一恵による八方にらみの雲龍1850年岐阜県重要文化財)kh062

鐘楼・万霊塔・十一面観音像(Nさん撮影)

永田佐吉の書(永田家所蔵) Top

竹鼻小学校内の佐吉像118

松浦・大浦線(円空通り)の円空像@(解説有)

松浦・大浦線(円空通り)の円空像A037

松浦・大浦線(円空通り)の円空像B040

竹鼻別院082(解説)

竹鼻別院山門015

竹鼻祭会場の竹鼻別院026

竹鼻別院ふじまつり017

竹鼻別院本堂028

竹中伝六喜伯の墓030

羽島市歴史民俗資料館(2F映画資料館)381

羽島市歴史民俗資料館(右下竹ヶ鼻城跡説明12)

佐吉大仏殿kha003 佐吉が1750年建立
明治24年濃尾大震災で焼失、昭和37年新築。

佐吉大仏087(拡大)   Top
台座高1.35m座高4.9m胴回り8.3m青銅製

竹鼻商店街中町の千代菊酒造009

セピア色の宮町旧家(小宮山邸)003Top

セピア色の下城町(菱田邸:美濃縞伝承館)010

下城町の格子戸のある通り013

竹鼻商店街(御坊瀬戸広場のフリーマーケット)031

竹鼻祭の商店街06(H18.5.3)

美濃竹鼻祭の山車036@4.25

美濃竹鼻祭の山車033A4.25

明倫堂(永照寺本堂)128(拡大説明)

円空資料館の若き修行僧円空(H17.8建立048)

中観音堂(十一面観音像他17体)enh22043

円空上人産湯の井戸(資料館駐車場東)enh22034

長間薬師寺(9体)薬師三尊像と護法神像は初期作品057

薬師寺の案内標識と円空象061
羽島市歴史民俗資料館の学習資料から抜粋  ★★コースマップのPDF  Top
「羽島市」
羽島市は岐阜県の西南部に位置し、東は木曽川を境として愛知県に接し、北は岐阜市・羽島郡、
西は長良川を隔てて海津郡・安八郡に接し、南は木曽川・長良川の併流をなすV字形に囲まれ
ています。このような位置にある羽島市一帯は、海抜5mの平坦地帯であるため、明治の中頃
まで出水のたびに洪水に悩まされ続けてきました。 
こうしたなかで人々は、集落毎に輪中を形成し、水屋を建設してその害を逃がれるよう努力し
てきました。 一方、このような条件の中で、地質は肥沃な砂質壌土となり、そ菜・果樹栽培に
適した地域となりました。 
また、本市の織物の発祥は古く、今からさかのぼること400年前の文禄時代の木綿織に始ま
り、これが日本の綿織物の始めとまでいわれています。 
以後、明治末期まで竹鼻銘仙・新銘仙・竹鼻紬などが完成されるに至りました。 
特に昭和期に入って、一段と隆盛を極め、ことに毛織物は県内の80%を、化繊は20%を
生産するまでになりました。 
現在では、愛知・大阪に次ぐ全国第3位の毛織物の産地とまでになりました。 
しかし、その後、東南アジアや中国の軽産業の発展と共にだんだん苦しい状況に追いやられて
斜陽産業のひとつに数えられるまでになり、大きな課題をかかえています
★(参考)羽島市歴史民俗資料館からTop

 羽島市の概要

羽島市は、応仁年間(1467〜1468)に作られた
と伝えられる竹ヶ鼻城を中核にした町と言われ、羽島に
は、古い町並みや寺院・川があり、緒情あふれる史跡の
町となっています。  
本市は、昭和29年(1954)4月1日に、1町9か
村が合併し、県下9番目の市として誕生しました。
その時の人口は、3万8千人余でしたが、現在は6万6
千人余となり、大きく発展しました。 
市には中央部に東海道新幹線が通り、それと平行して
名神高速道路が東西に走り、県の玄関口としての様相を
色濃くしています。 
また、南北には、名鉄電車、岐阜羽島道、南濃線などが
通り、木曽川や長良川には橋もかけられ、外部とのつな
がりもよく、県産業の中核地としての役割が強く期待さ
れています。

〔人口〕 平成22年8月1日現在
・世帯数・・・24,030
・人口総数・・69,103人(男34,009女35,094)
・人口密度・・1,231人/1キロ平方メートル

〔気象〕
・年平均気温・・・・・・15、2度
・最高気温・・・・・・・35、0度
・最低気温・・・・・・・−5、0度
・年間降水量・・・・・・1,691、5cm

〔位置〕 
羽島市は、県の西南部に位置し、東は木曽川を境と
して愛知県に接し、北は岐阜市、羽島郡、西は長良川
を隔てて海津郡・安八郡に接し、南は木曽・長良川の
併流をなすV字形に囲まれています。 
市内全域が海抜5mの平坦地帯であります。
・面積・・・・・・53、64キロ平方メートル
・平均海抜・・・・5、42m

〔市章〕 
昭和29年(1954)8月1日に制定された市章は
竹ヶ鼻城主の紋所と羽島市の「羽」を図案化したもの
で、円満な市政を象徴したものです。

市の木(かいずかいぶき)
市の花(美濃菊)

羽島市観光協会

博物館一覧(岐阜) Top
 竹ヶ鼻城の歴史   ★Top

応仁年間(1467〜1468)に作られ
たと伝えられる竹ヶ鼻城は、町のどの位置
に如何なる程度のものであったのだろうか。 
明確にこのことを記しているものは、一つ
もないが、大体の位置は、竹ヶ鼻町上城、
下城両町からその裏にかけて構築されてい
たものと推定されます。
城の規模は、城というよりもむしろ砦とい
った方が適当と思われます。 
城に係わる図面などは1枚も残存していま
せんが、金沢市兼六公園の宝物館にある
屏風に竹ヶ鼻城が描かれ、城の規模を知る
唯一の資料となっています。 
その屏風絵によると、竹ヶ鼻城は、城郭の
奥の木立に高く石垣を積み、その上に二層
の天守閣を思わせるような建物があり、屋
根は瓦ぶき。その斜め左前には、平屋建て
の櫓様のものが一棟建ち、その下に2・3
の家屋が立ち並んでいる。 その周りは、
真っ白な城壁が取り囲み、斜め北向きに
城門があってその前に木橋が架けられ、堀
が全体をとりまいているという状況でした。 
こうしたことから竹ヶ鼻城本丸があった
場所は竹鼻別院の北西に位置する松山大浦
線沿いであったと思われます。 
平成8年までは、この道路の北にある畑に
「本丸跡」の石碑が建っていましたが、
現在は、当資料館の西南隅の地に移動され
ています。
 さて、この城の構築者が誰れであったか
ということであるが、第1代の城主、竹腰
伊豆守尚隆であろうと言われていますが、
明確には定かでない状況です。

以下羽島市歴史民俗資料館から抜粋 しています    Top
格子戸のある町並み
竹鼻祭りと山車
永田佐吉
津島神社と出征兵士
円空
レンコンづくり
竹鼻別院(Wikipediaへ) Top

沿革 
嘉禎元年(1235年)、親鸞が東国より帰京する際に
三河国に立ち寄り、住民に説法していることを聞い
た尾張国葉栗郡門間庄[1]の住人9名(後の河野九門
徒)が帰依し、尾張国葉栗郡木瀬に草庵を建立した
のが始まりとされる。
文明2年(1470年)蓮如がこの地を訪れた際、この
草庵を再興。新加納[3]に移転し「河野御坊」と名
づける。当時、この地域[4]では、浄土真宗に改宗
した寺院が多く、蓮如の足跡が多く残されている。
慶長9年(1604年)、教如により新加納から美濃国
羽栗郡竹ヶ鼻村に移転し、時期は不明だが「専福寺」
に改称している。尚、河野御坊の一部は中屋(現各
務原市)に移転し、河野西入坊となっている。
宝暦10年(1760年)、現在地に移転する。
文政5年(1822年)、本堂を再建する。
明治19年(1886年)、竹鼻別院と改称する。
明治24年(1891年)10月28日、濃尾地震で罹災し、
堂宇が倒壊する。仮本堂を建立する。
大正11年(1922年)、再建される。

竹鼻別院のフジ  ★Top

県・市の天然記念物に指定されている竹鼻別院のフジ
は、樹齢250年以上の古木です。
しかし、目通り周囲2、8m、枝張り東西33、0m
、南北15、0mに達し、木の勢いは十分にあります。 
そして、例年5月上旬、四弁薄紫の蝶形の花を総状
花序に垂れて咲き、その優艶な長い花序は、晩春を
飾るにふさわしい姿で、大勢の人々に「別院のフジ」
として親しまれています。


◎八剱神社  祭神は日本武尊。天正9年(1581)竹ヶ鼻城主 不破源六により居城の守護神として現在地に遷紀。 遷紀当時は室町幕府の末期に当たり、当時の居城の 跡地は諸説があって確かではない。現在竹鼻の東部 を流れる「逆川」は城の外堀であったが、後世太閤 秀吉による水攻めで落城し今は城跡はない。  祭礼は江戸時代より明治の中期迄は実りの秋に行 われていたが、周辺の村祭と重なるので明治35年 より春に変わり、戦後大型連休の初日の5月3日に なった。山車は13輌ですべて県指定重要有形民俗 文化財に指定されており、半数づつの隔年交互曳行 とされている。
真如山本覚寺(史跡等説明から) Top

 当山は、福井県永平寺と横浜市総持寺を2大本山と
する曹洞宗のお寺。永正年間(1504〜1520)の頃、
時の領主・不破綱広源六公が始祖・本覚寺殿大雲義
沢大居士のために、一宇を創建したのが始まり。
竹鼻城主の菩提寺といわれる由縁です。
 その後、当山は小牧長久手の戦い、関ヶ原の戦いの
戦乱、安永三年(1773)の大火、明治24年(1891)
の濃尾大震災などに見舞われ、そのたびごとに倒壊・
焼失、復興・再建を繰り返し、現在の伽藍は大正4年
(1915)に建立され、第二次世界大戦の戦火を免れ、
今日を迎えています。
 本尊は宝冠釈迦牟尼如来、本堂内には十六羅漢像の
他に少なくとも江戸期に製作された125体の震災の傷跡
が痛ましい羅漢像が祀られ、天井には幕末の勤皇家で
京都の大和絵師であった浮田一恵による八方にらみの
雲龍1850年岐阜県重要文化財)が描かれています。
この板絵は濃尾大震災により破損したのですが、本堂
再建の際に森村宜稲画伯によって大正4年(1915)に
復元されたものです。
当山には同画伯による八面の松の襖絵もあり、期間限
定で展示されています。
 本堂の左手奥には不破家伝来の・・・竹鼻稲荷大明神
が祀られ、多くの人々の信仰を集めている。
 また、庫裡の裏手にある境内墓地には美濃聖人・
永田佐吉翁(1701〜1789)の墓所(岐阜県指定史跡)
がある。(碑の左右に1789年10月10日の刻印
 なお、境内の万霊塔上には満面に笑みを湛えられた
お地蔵様を始め、如意輪観世音さまや十一面観世音様
が祀られ、その周りや稲荷堂の周辺には百数十種の色
とりどりの牡丹が植えられ、4月中旬から5月の始め
まで、参詣者の目を楽しませています。


円空の詳細はこちらをご覧ください。(HP) 円空通り、別院のフジ、佐吉大仏はこちらも ご欄ください。
コースマップのPDF

竹鼻別院紹介ブログ
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コースリーダーとして先導
友歩会会長の寺沢さん撮影(2010.10.2)

本覚寺にて住職の話を聞く
友歩会会長の寺沢さん撮影(2010.10.2)
美濃竹鼻まつりの山車        Topへ

美濃路マップ  (Web美濃路参照)


美濃路のおもな史跡(@〜E)〜尾張編(約29.5km〜)
及び美濃編(約28km)(F〜H)
(美濃路<中山道垂井宿〜東海道宮の宿>約57.5km)
全長十四里二十四町十五間(約57.5km)、慶長5年家康が関ヶ原の戦いから凱旋の
  帰路、この道を通って帰ったことから「お悦び街道」とも呼ばれている
@【起宿】(美濃路)(Wikipedia)
起宿(おこしじゅく)は、美濃路の宿場である。現在の愛知県一宮市(旧尾西市)に
ある。木曽川沿いにあり尾張国と美濃国の境にあたる。木曽川に設けられた起渡船場は、
上の定渡船場、中の宮河戸、下の船橋河戸の3ヶ所の渡し船が設置されていた。
船橋河戸には、将軍上洛時と朝鮮通信使が通る時に、270隻の船を使用した長さ約800mの
船橋が架けられた。
(人柱観音・定渡船場跡・宮河戸跡・船橋跡・本陣及び問屋場跡・脇本陣跡)
〜駒塚道道標・冨田一里塚跡・天神の渡し跡・孝子佐吾平の碑・萩原橋〜
A【萩原宿】(美濃路)(Wikipedia)
萩原宿(はぎわらじゅく)は、美濃路の宿場である。現在の愛知県一宮市萩原町にある。
日光川の東に位置する。美濃路の宿場では最も小規模である。
現在の一宮市萩原町は宿場としての建物は少なく、商店街になっている。
商店街は昭和30〜40年代のレトロな感じがある。
毎年5月には萩原宿チンドン祭りが行なわれる。

(本陣・問屋場跡)〜高木一里塚跡・中嶋宮・長隆寺〜
B【稲葉宿】(美濃路)(Wikipedia)
稲葉宿(いなばじゅく)は、美濃路の宿場である。現在の愛知県稲沢市にある。
初めは稲葉村だけであったが、後に小沢村が加宿となった。ちなみに現在の稲沢市は稲葉
村と小沢村の合併によるもので、市の名称はこの2村の名を1字ずつとったものである。
本陣跡と問屋場跡に石碑が建つのみだが、古い町並みがよく残っている。
清須城主・織田信雄が、小牧・長久手の戦いの前に造らせたのがこの街道の起源とされる。
明治2年(1869年)の稲葉騒動では、この宿場への打ちこわしから始まり、やがて西尾張
全域に拡大していった。近代から昭和にかけても、稲沢銀行や稲沢電気が置かれるなど市
の商業地区として賑わいをみせた。
現在では、老舗の多い商店街として、メディアにたびたび紹介されている。
(禅源寺・問屋場跡・津島道道標・本陣跡・稲葉一里塚跡)
〜国府宮・長束正家邸跡・四ツ家追分・丹羽盤桓子出生地・長光寺(四ツ家追分道標・
・六角堂・臥松水)・浅野長勝宅跡・亀翁寺・総見院〜

C【清須宿】(美濃路)(Wikipedia)
清須宿(きよすじゅく)は、美濃路の宿場である。現在の愛知県清須市にある。
清洲城の城下町であったが、いわゆる清洲越しによって町ごと名古屋城下に移転して、
いったん清須の町はさびれた。しかし、慶長7年(1602年)に美濃路の宿駅となって町は
宿場町として再生した。

史跡・みどころ 
清凉寺
門前は高札が立ち、札の辻と呼ばれた。
本陣跡
将軍上洛、朝鮮通信使、お茶壺道中、そして明治天皇の休泊所となった。
清洲城文化広場
清洲城は慶長15年(1610年)に廃城となった。現在の天守閣は、清洲町の町政100周年
記念事業として再建されたもので、正式には「ふれあい郷土館」。
入場料 大人300円 小人150円。

稲葉宿までの史跡・みどころ
「北市場 美濃路公園」
長光寺
地蔵堂(六角堂)は国の重要文化財。境内に四ツ家追分にあった道標が移設されている。

盤桓子誕生地。
四ツ家追分:美濃路と岐阜街道との追分、現在は稲沢市による石碑が建つ。
七曲縄手
国府宮神社一ノ鳥居
(本陣跡・清涼寺・清洲城跡)
〜五条橋・元須ヶ口一里塚道標・須ヶ口一里塚跡・新川橋橋詰ポケットパーク・瑞正寺宝塔・
・屋根神様・西枇杷島問屋記念館・枇杷島橋・清音寺・屋根神様・尾州茶屋跡・
白山神社・大木戸跡・江川一里塚跡・名古屋城・五条橋・四間道・屋根神様・伝馬橋〜

D【名古屋宿】(美濃路)(Wikipedia)
名古屋宿(なごやじゅく)は美濃路の宿場である。現在の愛知県名古屋市中区にあった。
尾張藩の城下町で、慶長18年(1613年)に宿駅となって伝馬会所や御触書を掲げる高札場
も置かれたが、本陣や脇本陣はなかった。
また寛文5年(1665年)には飛脚会所も置かれている。美濃路の他に勝川・内津・土岐・
釜戸などを経て中山道槙ヶ根追分へと至る下街道など、交通の要衝でもあった。
現在ではビル街となっており、往時の様相は残されていない。
(辻の札)〜大須観音・西別院・東別院・古渡城跡・佐屋道標・熱田神宮一の鳥居跡・
・断夫山古墳・源頼朝生誕地(誓願寺)・白鳥御陵道標・熱田神宮・上知我麻神社〜

E【宮(熱田)宿】(東海道)(Wikipedia)
宮宿(みやじゅく、宮の宿、熱田宿)は、東海道五十三次の41番目の宿場。中山道垂井宿
にいたる脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点でもあった。一般には宮の宿と呼ばれること
が多かったが、幕府や尾張藩の公文書では熱田宿と書かれている。
場所は現在の愛知県名古屋市熱田区にあたる。東海道でも最大の宿場であり、天保14年に
は本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋は248軒を擁し、家数2924軒人口10,342人を数えたという。
古くからの熱田神宮の門前町、港町でもあり尾張藩により名古屋城下、岐阜と並び町奉行
の管轄地とされた。桑名宿とは東海道唯一の海路である七里の渡しで結ばれていた。
現在も、折りにふれて宮〜桑名間を遊覧船で渡る現代版「七里の渡し」が行われる。
江戸時代中期以降は四日市宿へ直接渡る航路(十里の渡し)もよく利用された。
裁断橋・姥堂・ほうろく地蔵・美濃路道標・赤本陣跡・西浜御殿・七里の渡し跡・常夜燈・
・時の鐘櫓・丹羽家住宅)

以上、尾張編(起〜宮宿) 以下は美濃編(墨俣〜垂井)

F.墨俣宿 (岐阜県大垣市)(美濃路Wikipedia参照)  墨俣宿(すのまたじゅく)は、美濃路の宿場である。現在の岐阜県大垣市墨俣地域自治区 (旧安八郡墨俣町)にある。 墨俣は、美濃路が設定される以前より、古くから宿場町として栄えていた。 室町時代迄の鎌倉街道(京〜鎌倉)の宿場町は大垣市墨俣町上宿付近にあり美濃路の設定 時に大垣市墨俣町墨俣付近に移設された。 揖斐川と長良川に挟まれており重要な宿場であった。長良川には墨俣の渡しという渡し船 があった。近くには豊臣秀吉ゆかりの墨俣城(墨俣一夜城)がある。 G.大垣宿 (岐阜県大垣市) 大垣宿(おおがきじゅく)は、美濃路の宿場である。現在の岐阜県大垣市にある。 大垣宿は大垣藩の大垣城城下町でもある。 このように宿場町であり城下町である場所は加納宿等がある。 大垣宿は西口〜東口までの長さは約2.9km、京口門(西総門)〜名古屋口門(東総門) までの長さは約1.1kmあり、大規模な宿場町であった。 京口門と名古屋口門は有事の場合、大垣城の7箇所の門と同時に閉鎖される仕組みであった。 現在の大垣市の地名でいうと、伝馬町〜本町〜竹島町〜俵町〜船町〜久瀬川町が該当する。 大垣市はかつての大垣宿の歴史・文化を利用した景観まちづくりを策定している。 H.垂井宿 (岐阜県垂井町) 垂井宿(たるいじゅく)は中山道57番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は岐阜県 不破郡垂井町。西町・中町・東町の3町に分かれ、本陣は中町にあった。 問屋場は3か所あった。毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は大勢の人で賑 わった。大垣・墨俣などを経由して東海道宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分で、西美濃 の交通の要衝であった。


参考欄参照 及び(下記ホームページ参照)

羽島市歴史民俗資料館羽島市竹鼻まつりのHP(円空の詳細はこちらのHPへ)

羽島市観光協会 美濃路一里塚(宿場一覧)


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