友歩会例会史跡巡りPart3 ★笠松★羽島★拡大版
(平成22年3月27日(土)天気:晴れ)(3.27歩数:37,632歩)
(下見:笠松9.4の歩数:28,396歩・羽島9.18:25,716) (10.2の歩数:33,930歩、参加者59名)
★笠松町 ★笠松デジタルウオーキング(pdf) ★笠松町デジタルマップ参照(pdf)
午前9時、(笠松町)商工会館>鮎鮨街道碑>高嶋家前>善光寺本堂>石碑2塔>笠松別院山門>
>別院内蓮台寺塔礎石>産霊神社>法伝寺>笠松歴史民俗資料館>杉山邸>杉山邸の改装土蔵>
>土蔵内の写真展>>木戸跡>笠松湊公園>川湊石畳>大臼塚跡>蓮台寺遺跡(白鬚神社)>
>信長・道三別れの地(白髭神社内解説)>東流廃寺(蓮台寺)塔礎石(白髭神社内)>
>旗本津田領代官所跡(長池内)>誓廣寺(昼食)>児神社(鎌倉街道標柱)>以下羽島市へ
★(解説) ★コースマップのPDF (★友歩会の例会案内参照) ★鎌倉街道 ★笠松湊
高嶋家前にある鮎鮨街道の標識 高嶋家前にある案内板(★拡大はここ) |
高嶋家は鮎鮨街道の宿次(荷の受渡)を務めた 問屋場で古文書が残っている(高嶋:左4人目) |
善光寺本堂005 木曽川のかくれキリシタン処刑場に あった石碑が善光寺境内に移された(右の写真) |
かくれキリシタン処刑場にあった石碑006 左:南無妙法蓮華経右:南無阿弥陀仏 |
笠松東別院山門013 |
別院内蓮台寺(東流廃寺)塔礎石017★(044参照) |
産霊神社019 |
法伝寺024 |
笠松歴史民俗資料館展示の大船 kh006 |
資料館展示の★笠松湊の様子と石畳 kh011 |
杉山醸造店の暖簾osusi114 |
杉山邸2Fから見た改修土蔵osusi121 |
杉山邸土蔵改修(2010/03)028 |
土蔵内で可児幸彦写真展開催029 |
杉山邸 |
笠松湊公園11:09 |
木曽川笠松渡船場跡 |
★笠松港の石畳(ここを鮎鮨荷が通った) |
笠松湊の石畳を降りる kh024 |
木曽川橋をくぐる kh025 |
大臼塚跡(1697年)ここで隠れキリシタンが処刑された ここにあった2つの石柱は善光寺に移された |
蓮台寺遺跡(白鬚神社内)042 (解説) 信長と道三がここで最後に別れた |
蓮台寺塔礎石★(017参照)★(拡大解説)044 |
旗本津田領代官陣屋跡051(★解説) |
誓廣寺(雨天時昼食場所)056 ★コースマップのPDF |
児神社(左:★鎌倉街道の標柱)058 ★羽島編へ続く ★コースマップのPDF |
★(参考)笠松デジタルウオーキングから ★Top鮎鮨街道:街道は「岐阜−稲沢」が妥当と高橋さん はその著「鮎鮨街道いま昔」で指摘している。 長良川の鮎が「お鮨所」で加工されて、江戸城まで 46宿、5日間かけてリレー搬送された。江戸に着く 頃ちょうど食べ頃となるという。古文書ではこのリレ ーを「縦立」「宿次」と記述している。鮎鮨荷は、 ひと夏で「三荷で10回」が定型とされ、幕末まで 続いた。 街道の略図は、「鮎鮨街道いま昔」に詳しい。 | 参考:「杉山邸」 ★Top明治24年「濃尾大震災」直後に建造された町屋風 造りで杉山栓二郎さんの邸宅。 2006年国の登録文化財。1Fに7部屋2Fに5部屋 ある。敷地面積530u。総床面積230u。「笠松を 語り継ぐ会」(代表:高橋恒美さん)が邸宅を管理 運営している。 毎月第4土日に一般開放。平成21年9月笠松町 に譲渡された。 笠松の町おこしの拠点として歴史民俗資料館と ともに今後の活躍が期待される。 なお、土蔵が平成22年3月に修復されている。 改修前(★友歩会参照) |
木曽川笠松湊渡船場跡・石畳 笠松は、陣屋や県庁が置かれた所であったことから 交通の要であり、木曽川は荷物を運ぶなど、大切な 川でした。湊で荷揚げされた荷物は、大八車で各地 に運ばれました。 その大八車の車輪が食い込まないように、大きな石 を敷いて地面を固くしたものが石畳です。 現在の石畳は明治11年(1878)、明治天皇 巡幸の折、改修工事で山石を敷いたものと伝えられ ており、岐阜県の重要文化財に指定されています。 | 美濃郡代笠松陣屋・県庁跡 ★Top 江戸時代、笠松には陣屋(役所)が置かれ、年貢 の徴収、民治、裁判などの仕事をしていました。 陣屋は、明治政府の誕生とともに廃止され、慶応 4年(1868)に美濃国の一部が笠松県となった 際に、陣屋の跡に笠松県庁が置かれました。明治 4年(1871)岐阜県庁となりますが、明治6年 に県庁舎が岐阜市に移るまでは、ここで様々な仕事 が行われ、笠松は岐阜県の中心地でした。 また、当時、知事官舎として使われていた建物 が現在養老公園内にあり、「孝子館」として、 町民の皆さんに幅広く利用されています。 |
郡役所跡(新町) 明治12年(1879)郡役所が県下で16箇所に 置かれ、笠松村には羽栗・中島両郡の郡役所が置か れましたが、明治24年(1891)の濃尾震災で 燃えてしまいましたが、同27年新町に移転改築さ れました。 その後、羽栗・中島郡役所は新郡制が施行されると 羽島郡役所となり、大正15年(1926)に廃止 されました。 | 東流廃寺(蓮台寺)の塔礎石(白鬚神社内) 昭和32年(1957)、長池東流地区で土地改良 工事を行っていた時、土中から礎石や瓦等が発見さ れました。礎石には二重の穴があいていて、その大 きさから塔の高さは30メートル近くあったのでは ないかと推測されます。 このお寺は、出土した場所から東流廃寺と呼ばれ、 いくつかの建物や門などがあったと思われます。 この礎石は2つに割られ、西宮町の東別院と田代の 白鬚神社に残されています。 |
道三・信長両将別れの地(白鬚神社内) 斉藤道三は、娘を信長の嫁にしています。 天文22年(1553)富田(愛知県尾西市)の 正徳寺で親子対面し、両将は帰路を共にし、田代 の八幡神社(白鬚神社合祀)で別れの儀式をした 後、道三は稲葉山(金華山)の居城に、信長は 那古野(名古屋市)の居城に引き揚げました。 | 旗本津田領代官陣屋跡 ★Top 旗本津田氏の祖、小平次秀政は織田信長、太閤秀吉 徳川家康に仕え、七右衛門の代に姓を津田に改めま した。領地は最初、江戸の直接支配でしたが、江戸 中期以降は美濃と丹波(京都府亀岡)に代官所を置 いて支配していました。美濃国の采地は、葉栗郡の 長池村、三ツ屋村、藤掛村、光法寺村、おはけ村と 西濃の安八郡白鳥村、不破郡平尾村、本巣郡三日市 場村、そして可児郡3村を合わせた4011 石でした。 代官所は、最初は安八郡白鳥村にあって、野村氏が 支配していましたが、後に岩越氏が代官となって、 羽栗郡長池村に移され、明治初年まで美濃国11村を 支配してきました。 ★笠松紹介web参照 |
★鎌倉街道(wikipedia) ★鎌倉街道の説明(WEB) ★Topへ 古道としての「鎌倉街道」とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網である。鎌倉幕府の御家人 が、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道でもある。 鎌倉政庁自らの記録である吾妻鏡に、鎌倉街道という言葉は見られない。 あたかも鎌倉政庁により上道、中道、下道という名の「鎌倉街道」を整備していたかのように思われがちだが、 当時の記録にはそのような名前の道は見られず、また枝道なども鎌倉街道と呼ばれ各地にその名が残っている ものの、実際のところ「鎌倉街道」の由緒については不明である。 しかし、「鎌倉との往還道」という意味では、以下のような記述が散見される。 1.京や駿河・遠江と鎌倉の間、そして鎌倉よりさらに下総・常陸に向かう道として東海道 2.鎌倉から武蔵東部や下野に向かう中路 3.さらに中路を経て奥州に向かう奥大道 4.鎌倉から武蔵西部や上州に向かう下道 5.下道からさらに信濃・越後に向かう北陸道 これらのうち、「東海道」と「北陸道」は道路の意味よりむしろ地方の名称、すなわち律令制五畿七道の一道 の意味合いで用いられているとも解される上、「中路」はもともと官道の規格を表す表現として用いられて きたものでもある。 一般的な解釈として、鎌倉から武蔵西部を経て上州に向かう道路が「上道」とされているが、吾妻鏡の中に 「上道」の記述は見当たらず、むしろ鎌倉から上州を経て北陸道へ至る道を「下道」としている。 鎌倉街道の特徴 なるべく平坦な直線距離を取る。 見晴らしがいいように丘陵や台地、微高地の尾根を通る。 尾根道の場合、掘割状の凹型の断面となる。幅は騎馬が2列並んで通れる程度で決して広くはない。 ★Topへ |