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 尾西歴民・美濃路探訪・ウオーク参加レポート(
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  (平成26年10月26日(日)天気:晴れ)  Am9:00〜17:00

コース:尾西歴史民俗資料館・バス(起宿)9:00→萩原宿稲葉宿→清洲城(公園)→帰宅
今日の合計歩数(20,674歩) (※写真のサイズが小さいものは、前回(2010年)のものを利用しています)
2010春の美濃路バス探訪(2010.5.23尾西歴民主催参照)

美濃路マップ美濃路のおもな史跡下記市川房枝説明参照禅源寺と稲葉騒動清洲城(wikipedia)


史跡冨田一里塚(左・西塚)005  
美濃路で唯一道の両側に塚が残っている。

史跡冨田一里塚(右・東塚) 006 
東側が朽ちている為倒壊防御が施されている。

孝子佐吾平遭難碑文(拡大解説

孝子佐吾平遭難遺跡mnj006
拡大解説

市川房枝について学芸員さんの解説(下記説明参照)

市川房枝解説(拡大) 又(下記説明参照)

地蔵菩薩 013

馬頭観音(1763宝暦13年建立) 014

萩原宿問屋場跡 t016 2日交代で人馬の継位
業務を行った。上問屋は鵜飼家、下問屋は木全家

美濃路萩原宿本陣跡(森権左衛門世襲) t018
寛永年間、新田開発につとめた。

2010.5.23萩原商店街ちんどんまつりが行われた
美濃路は正面から右へクランクしている 011

天満山 正瑞寺本堂 010  5.23
正瑞寺前には高札場があった。

天満山 正瑞寺 mino014

萩原商店街の旧家 015 

萩原商店街の蔵
022

萩原商店街(美濃路)を抜けて郷土資料館へ向かう040

舟木一夫の映画ポスター(郷土資料館内)

郷土資料館建立の趣旨(拡大)049

琉球王使節 随員の墓057

薩摩隼人の墓056

禅源寺の愛知県指定文化財mh26w064

吉田家の墓

勅使門059

菊の御紋入りの鬼瓦062

梵鐘063

稲葉宿本陣跡の碑066

稲葉宿の旧家070

稲葉宿の旧家071

美濃路稲葉宿の案内077

中央:長束正家邸祉碑mino038  
秀吉5奉行の1人、長束村出身と伝える。

岐阜(鮎鮨)街道と美濃路追分の碑mino40 
岐阜街道は約26km、尾張藩が支配した。

美濃路街道の道標085

長光寺山門044  

六角堂090

長光寺本堂092

長光寺本堂

信長愛飲の井戸・臥松水098

長光寺六角堂(尾張6地蔵の1つ)mino046

北市場美濃路公園mino050 

清洲城周辺案内106

信長像115

清洲城西門mino057 

左:濃尾大地震記念碑136

清洲城mino058

清洲城mino064

清洲城の石垣136

清洲城と五条川110

明治天皇休息所、美濃地清洲宿本陣跡129

清洲城公園をあとに帰宅した131
美濃路マップ   (Web美濃路参照)   Topへ
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美濃路のおもな史跡(@〜E)〜尾張編約29.5km〜  Top

@【起宿】(美濃路)(Wikipedia)
(人柱観音・定渡船場跡・宮河戸跡・船橋跡・本陣及び問屋場跡・脇本陣跡)
〜駒塚道道標・冨田一里塚跡・天神の渡し跡・孝子佐吾平の碑・萩原橋〜
木曽川の起渡船場のある宿場町。水陸交通の拠点として賑わった。天保14年の起宿は、10町6間
(1,102m)本陣1(加藤家)脇本陣1(林家)、家数887軒、人口4,094人、問屋場2(加藤家永田家)。
 木曽川は川幅500間余(909m)、江戸初期の将軍家や朝鮮通信使の通行時の架橋は270艘以上
 の船を繋いだもので、日本最大の規模。(寄船・助郷制度)
A【萩原宿】(美濃路)(Wikipedia)
(本陣・問屋場跡)〜高木一里塚跡・中嶋宮・長隆寺〜
天保14年の萩原宿は、8町36間(938m)本陣1(森家)脇本陣1(森家)、家数236軒、人口1,002人、
  問屋場2(鵜飼・木全家)。萩原商店街として今日まで存続している。
B【稲葉宿】(美濃路)(Wikipedia)
(禅源寺・問屋場跡・津島道道標・本陣跡・稲葉一里塚跡)
〜国府宮・長束正家邸跡・四ツ家追分・丹羽盤桓子出生地・長光寺(四ツ家追分道標・
・六角堂・臥松水)・浅野長勝宅跡・亀翁寺・総見院〜
天保14年の稲葉宿は、8町21間(911m)本陣1(原家)脇本陣1(吉田家)、家数336軒、人口1,572人
、問屋場3(原・伊東家、1問屋場2日交代)。街道から少し北にある禅源寺には将軍家光
  が宿泊し、朝鮮通信使(洪世泰)が書いた「禅源寺」の扁額や琉球使節副使の西平親方
  が書いた漢詩が残されている。  Top
C【清須宿】(美濃路)(Wikipedia)
(本陣跡・清涼寺・清洲城跡)
〜五条橋・元須ヶ口一里塚道標・須ヶ口一里塚跡・新川橋橋詰ポケットパーク・瑞正寺宝塔・
・屋根神様・西枇杷島問屋記念館・枇杷島橋・清音寺・屋根神様・尾州茶屋跡・
白山神社・大木戸跡・江川一里塚跡・名古屋城・五条橋・四間道・屋根神様・伝馬橋〜
天保14年の清須宿は、本陣1(旧林家)脇本陣3(櫛田家、2軒は不明)、家数521軒、人口
  2,545人、問屋場1。清涼寺の鐘、神明町両側の旅籠屋・茶屋・置屋・料理屋などが軒を
  並べていた。清須宿は当初清洲城下の伝馬町に設けられたが慶長15年の清須越で廃止
  され、続く洪水で流失し元和2年桑名町に置かれた。寛文8年の火災で神明町に移った。
D【名古屋宿】(美濃路)(Wikipedia)
(辻の札)〜大須観音・西別院・東別院・古渡城跡・佐屋道標・熱田神宮一の鳥居跡・
・断夫山古墳・源頼朝生誕地(誓願寺)・白鳥御陵道標・熱田神宮・上知我麻神社〜
天保14年の名古屋宿は、尾張藩の城下町で宿高はなく、「伝馬役4ヵ町」で宿役(伝馬役)
  を勤めた。家数1,157軒、人口4,188人、旅籠・本陣・脇本陣はない。貴顕の休泊には藩
  の指示に従った。一般の人馬継立は伝馬番(会)所(渡辺→吉田)(伝馬町筋本町通西南
  角)で他の宿と同様に行った。
E【宮(熱田)宿】(東海道)(Wikipedia)
(裁断橋・姥堂・ほうろく地蔵・美濃路道標・赤本陣跡・西浜御殿・七里の渡し跡・常夜燈・
・丹羽家住宅)
宮宿は熱田宿ともいい、江戸時代には桑名宿への海上七里の渡し場で美濃路と佐屋路へ
  の分岐点でもあり、東海道随一の宿場でした。天保14年の宮宿は、本陣2(神戸町の
  赤本陣(正本陣)は南部家、伝馬町の白本陣は森田家)脇本陣1、家数2,924軒、人口
  10,342人、問屋場1。東海道筋は東の築出町から伝馬町を西進突き当たりの源太夫社
  を南下、渡船場まで約1.2km。高札場のあった上知我麻神社(源太夫社・現神宮境内内)
  から北へ約2.8km美濃路の町並(市場町)が続いていた。

F墨俣G大垣H垂井は、ここをクリックしてください。  Top


熱田神宮の各ホームページ等参照 (また拡大版内散策マップ参照)(解説)
熱田神宮(wikipedia)熱田神宮動画熱田神宮YouTube熱田神宮(動画) Top
東海道(wikipedia) 健康ウオーキング東海道53次 東海道一人旅
美濃路のおもな史跡(下記解説参照)美濃路(wikipedia)美濃路1美濃路
美濃路探策Network2010美濃路(動画あり)

一宮市観光協会ホームページ 一宮市ホームページ 尾西歴史民俗資料館
稲沢市観光協会清須市清須市観光協会名古屋市名古屋市観光情報   Top


市川房枝(wikipedia)    Top
市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年(明治26年)5月15日 - 1981年(昭和56年)2月11日)は、
日本の婦人運動家、政治家(元参議院議員)。
愛知県中島郡明地村(後の朝日村→尾西市。現在は一宮市)生まれ。戦前と戦後にわたって、
日本の婦人参政権運動(婦人運動)を主導した。1981年(昭和56年)2月に尾西市(現在の一宮市)
の名誉市民となる。1981年(昭和56年)参議院永年在職議員表彰を受ける。
経歴
戦前
愛知県中島郡明地村に農家の3女として生まれた。愛知県女子師範学校(現在の愛知教育大学の前身)
在学中に、良妻賢母教育に反対して同級生と授業ボイコットを実施し、後の婦人運動家としての活動
を予感させた。
卒業後は愛知県内の訓導として勤務したが病気のため退職。1917年(大正7年)名古屋新聞(現在の
中日新聞)の記者となった。1919年(大正8年)に平塚らいてうらと日本初の婦人団体新婦人協会を
設立。女性の集会結社の自由を禁止していた治安警察法第五条の改正を求める運動を展開。
1924年(大正13年)「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成。男子普通選挙が成立した1925年
(大正14年)には同盟会を「婦選獲得同盟」と改称し、政府・議会に婦人参政権を求める運動を続
けた。1924年(大正13年)には国際労働機関(ILO)の職員となり、女性の深夜労働などの実態調査
を行った(1927年(昭和2年)辞職)。
1930年(昭和5年)に「第1回婦選大会」を開催。同年に婦人参政権(公民権)付与の法案が衆議院で
可決されるが、貴族院の反対で実現に至らなかった。他に汚職反対・母子保護・生活防衛などを目的
とした様々な運動に関わった。
市川は国策(戦争遂行)への協力姿勢をみせることで、婦人の政治的権利獲得を目指す方針をとり
評論活動を行った。1940年(昭和15年)に婦選獲得同盟を解消し「婦人時局研究会」へ統合。
1942年(昭和17年)に婦人団体が大日本婦人会へ統合。大政翼賛会を中心とした翼賛体制に組み込ま
れ、市川は大日本言論報国会理事に就任。
戦後
1945年(昭和20年)8月25日には久布白落実、山高しげり、赤松常子らと共に「戦後対策婦人委員会」
を組織し、引き続き政府や各政党に婦人参政権を要求。同年11月3日には戦後初の婦人団体「新日本
婦人同盟」を結成し会長に就任。12月17日には衆議院議員選挙法改正で婦人参政権(男女普通選挙)
が実現した。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙では39人の婦人(女性)議員が誕生した。
市川は自ら立候補せず、また有権者名簿の登録漏れのため投票もできなかった。
戦時中に大日本報国言論会理事であったため、1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)まで公職
追放となる。1950年(昭和25年)10月13日に追放解除。同年11月9日には新日本婦人同盟の臨時総会に
おいて、団体の名称が日本婦人有権者同盟と改称され、市川が会長に復帰(1953年(昭和28年)
4月25日まで)。その後は、公娼制度復活反対や売春禁止、再軍備反対などの運動にも取り組んだ。
1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙に東京地方区から立候補し当選。4期目を目指した
1971年(昭和46年)の第9回参議院議員通常選挙で落選するが、1974年(昭和49年)の第10回参議院
議員通常選挙で全国区から立候補、当選して通算5期25年務めた。組織に頼らず個人的な支援者が手
弁当で選挙運動を行う選挙スタイルを生涯変えず、「理想選挙」とまで言われた。市川は自らの選挙
手法を他の候補者にも広めようとしてさまざまな選挙浄化運動に参加した。
国会内では政党に属さず、無所属議員の集合体である第二院クラブに所属して活動を行った。
1967年(昭和42年)の統一地方選挙では東京都知事選挙で美濃部亮吉を支持。その一方石原莞爾を
「高潔な人格者」と高く評価したり、1963年(昭和38年)結成の「麻薬追放国土浄化同盟」では、
右翼の大物と目されていた田中清玄や暴力団・山口組組長の田岡一雄などとも協力するなど、ある種
の柔軟性も備えていた。
市川は『国際連合に日本人女性を送り出したい』と考え、1968年に当時、国際基督教大学講師を務め
ていた国際政治学者の緒方貞子に白羽の矢を立ててその年の国際連合総会日本代表団に加わるように
緒方を説得して了承させた。これが契機となり緒方は国際連合の仕事に関わるようになる。
1980年(昭和55年)の第12回参議院議員通常選挙では、87歳の高齢にもかかわらず全国区でトップ
当選を果たしたが、1981年(昭和56年)に心筋梗塞のため議員在職のまま死去。死去の2日後、
参議院本会議では市川への哀悼演説と永年在職議員表彰がともに行われた。また、同年に出身地
愛知県尾西市の名誉市民となった(尾西市が一宮市と合併後は、一宮市の名誉市民となっている)。
一方で1978年(昭和53年)春の叙勲にあたり、勲二等宝冠章授与を打診されたが、辞退している。
現在、国立国会図書館には、市川が1978年(昭和53年)に語った「政治談話録音」が収録されて
いる。7時間に及ぶ長いもので、30年後の2008年(平成20年)に公開されるはずであったが、市川
房枝記念会等の要望により期限前に公開された。現在、国立国会図書館にて、テープの視聴、
および、テープから文字起こしをした「談話速記録」の閲覧、複写が可能である。 Top


禅源寺(ぜんげんじ)と稲葉騒動  <時代>江戸・明治時代  <地域>尾張  Top

<概要>
  禅源寺は,美濃路沿いの臨済宗の寺院である。県指定文化財の鎌倉時代前期の作といわれて
いる寄木造(よせぎづくり)の阿弥陀如来坐像などが安置され,江戸時代には,3代将軍
徳川家光が宿泊し,葵の紋の使用を許可したことでも知られている。
  1869年(明治2)積雪の12月,この寺の鐘の音を合図に中島・海東両郡,現在の稲沢・
一宮・津島の諸市を含む広い地域の人々が決起する農民騒動があった。
これを,禅源寺のあった稲葉宿(いなばじゅく)の名をとって稲葉騒動と呼んでいる。
農民たちは凶作のため,救い米を求めて代官所役人に強訴し,質屋や富商を打ちこわしていった。
騒動は4日間に及び,3万を越える人々が参加したが,草薙隊(くさなぎたい)など農民隊を含む
尾張藩兵らの銃撃を受けて鎮静化した。 
<ポイント>
  明治維新の諸政策が進められる中,農民たちは,新しい政府が彼らの期待していたものとは
違い,あいかわらず高い年貢を徴収したことに対する失望感を抱き,そこから百姓一揆が生じて
いったこと,尾張におけるその代表的なものが稲葉騒動であることを学習する。 
<見学のポイント>
  稲葉騒動の合図となった鐘がつかれたという鐘楼は,山門を入ってすぐの所にある。
その脇に,徳川家から使用を許された葵の紋の瓦が置かれている。禅源寺から南100mほどの所が
稲葉宿である。併せて見学するとよい。 Top

清洲城(wikipedia) 歴史 応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。または永和元年 (1375年)とも。当初は、尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8年 (1476年)に守護代織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10年(1478年)に守護所が清須 (=清洲)に移転することで尾張国の中心地となった。一時期、「織田弾正忠家」の当主織田 信秀が清須奉行として居城した以外は常に清洲織田氏(織田大和守家)の居城としてあり、 尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として機能した。 織田信秀が古渡城に拠点を移すと守護代織田信友が入城したが、弘治元年(1555年)織田信長 と結んだ織田信光によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、 本拠として居城した。信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須を居城 とした。1562年(永禄5年)には信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟)。 永禄6年(1563年)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。 天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は次男 ・織田信雄が相続した。天正14年(1586年)に信雄によって2重の堀の普請、大天守・小天守・ 書院などの造営が行われている。小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らって除封 され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸 に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、忠吉が関ヶ原の戦傷がもと で病死すると慶長12年(1607年)には忠吉の九弟徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった。 慶長14年(1609年)徳川家康によって、清須から名古屋への遷府が指令されると、慶長15年 (1610年)より清須城下町は名古屋城下に移転され(清洲越し)、清須城も名古屋城築城の際 の資材として利用され、特に、名古屋城御深井丸西北隅櫓は清須城天守の資材を転用して作ら れたため「清須櫓」とも呼ばれる。慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了 したことにより廃城となった。

2010春の美濃路バス探訪(2010.5.23尾西歴民主催)

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