2011.10.22(土) 美濃路ウオーク2011参加レポート(詳細・拡大)
(平成23年10月22日(日)天気:雨) Am8:30〜14:00 16km
コース:自宅6:30:江吉良6:54→岐阜7:40→大垣7:53→駅前商店街8:30集合→美濃路ウオーキング→大垣宿→
→結神社→町屋観音堂→墨俣宿(一夜城)→羽島市一里塚跡→間の宿→羽島市竹鼻商店街
(なまずまつり開催22/23日)(昼食)(歴史民俗資料館見学)ゴール→商店街散策→帰宅 今日の合計歩数(34,296歩)
★美濃路探訪(HP)★美濃路のおもな史跡 ★墨俣宿 ★大垣宿 ★羽島市観光協会 ★羽島市 ★用語解説
★今回一宮市からの出発点になった尾西歴史民俗資料館(起宿)と名鉄萩原駅(萩原宿)についてはこちらのHPを参照
大垣駅前商店街のアーケードで受付001 8:18 |
雨天で増水した水門川 004 8:43 |
出発式の挨拶005 8:44 |
貴船神社(手前は水門川) 007 9:02 |
ここから美濃路に入る009 9:03 |
イオンモール前を通過 011 9:15 |
ソフトピアジャパンが見える013 9:33 |
国道21号線沿いに新揖斐川橋を渡る018 10:00 |
増水している揖斐川019 10:00 |
結神社024 10:12 |
結神社026 10:13(★用語解説) |
町屋観音堂034 10:17(★用語解説) |
鎌倉街道(美濃路)を行く036 10:20(★用語解説) |
米の宮之址 037 10:01 |
鎌倉街道(美濃路)の案内039 10:24 |
墨俣一夜城遠望 044 10:42 |
美濃路は右へ048 10:44 |
一夜城 049 |
津島神社(右:琉球使節通行記念灯籠)052 10:49 |
墨俣宿脇本陣跡053 10:51(本町の安藤家・加藤家が世襲) |
墨俣宿の美濃路057 10:53 |
一夜城 062 10:56(手前は犀川) |
長良大橋066 11:02 |
境川(元木曽川)070 11:19 |
境川堤防南側西小熊の一里塚跡079 11:31(榎はなく銀杏) |
美濃路は右側(左は鎌倉街道)082 11:42 |
親鸞聖人縁の跡(親鸞聖人御旧跡)083 11:43 |
間の宿 088 12:00(★用語解説) |
ゴールまで50m(竹鼻商店街)090 12:47 |
竹鼻商店街(御坊瀬戸ゴボセコ通り)で歌う歌手095 13:29 |
なまずまつりの竹鼻商店街(雨天で人が少ない)095 13:29 |
東北地方の物産展があった097 13:31 |
商店街のなまずイベントロードt098 |
なまずまつり案内t099 |
◎F.墨俣宿 (岐阜県大垣市)(以下、★美濃路Wikipedia参照) ★Topへ 墨俣宿(すのまたじゅく)は、美濃路の宿場である。現在の岐阜県大垣市墨俣地域自治区(旧安八郡墨俣町)にある。 墨俣は、美濃路が設定される以前より、古くから宿場町として栄えていた。 室町時代迄の鎌倉街道(京〜鎌倉)の宿場町は大垣市墨俣町上宿付近にあり、美濃路の設定時に大垣市墨俣町墨俣付近 に移設された。 揖斐川と長良川に挟まれており、重要な宿場であった。長良川には墨俣の渡しという渡し船があった。 近くには豊臣秀吉ゆかりの墨俣城(墨俣一夜城)がある。 Top ◎G.大垣宿 (岐阜県大垣市) 大垣宿(おおがきじゅく)は、美濃路の宿場である。現在の岐阜県大垣市にある。 大垣宿は大垣藩の大垣城城下町でもある。このように宿場町であり城下町である場所は加納宿等がある。 大垣宿は西口〜東口までの長さは約2.9km、京口門(西総門)〜名古屋口門(東総門)までの長さは約1.1kmあり、大規模 な宿場町であった。京口門と名古屋口門は有事の場合、大垣城の7箇所の門と同時に閉鎖される仕組みであった。 現在の大垣市の地名でいうと、伝馬町〜本町〜竹島町〜俵町〜船町〜久瀬川町が該当する。 大垣市はかつての大垣宿の歴史・文化を利用した景観まちづくりを策定している。 Top |
美濃路のおもな史跡(@〜E)〜尾張編約29.5km〜 Top ◎@【起宿】(美濃路)(Wikipedia) (人柱観音・定渡船場跡・宮河戸跡・船橋跡・本陣及び問屋場跡・脇本陣跡) 〜駒塚道道標・冨田一里塚跡・天神の渡し跡・孝子佐吾平の碑・萩原橋〜 ★木曽川の起渡船場のある宿場町。水陸交通の拠点として賑わった。天保14年の起宿は、10町6間 (1,102m)本陣1(加藤家)脇本陣1(林家)、家数887軒、人口4,094人、問屋場2(加藤家永田家)。 木曽川は川幅500間余(909m)、江戸初期の将軍家や朝鮮通信使の通行時の架橋は270艘以上 の船を繋いだもので、日本最大の規模。(寄船・助郷制度) |
◎A【萩原宿】(美濃路)(Wikipedia) (本陣・問屋場跡)〜高木一里塚跡・中嶋宮・長隆寺〜 ★天保14年の萩原宿は、8町36間(938m)本陣1(森家)脇本陣1(森家)、家数236軒、人口1,002人、 問屋場2(鵜飼・木全家)。萩原商店街として今日まで存続している。 |
◎B【稲葉宿】(美濃路)(Wikipedia) (禅源寺・問屋場跡・津島道道標・本陣跡・稲葉一里塚跡) 〜国府宮・長束正家邸跡・四ツ家追分・丹羽盤桓子出生地・長光寺(四ツ家追分道標・ ・六角堂・臥松水)・浅野長勝宅跡・亀翁寺・総見院〜 ★天保14年の稲葉宿は、8町21間(911m)本陣1(原家)脇本陣1(吉田家)、家数336軒、人口1,572人 、問屋場3(原・伊東家、1問屋場2日交代)。街道から少し北にある禅源寺には将軍家光 が宿泊し、朝鮮通信使(洪世泰)が書いた「禅源寺」の扁額や琉球使節副使の西平親方 が書いた漢詩が残されている。 Top |
◎C【清須宿】(美濃路)(Wikipedia) (本陣跡・清涼寺・清洲城跡) 〜五条橋・元須ヶ口一里塚道標・須ヶ口一里塚跡・新川橋橋詰ポケットパーク・瑞正寺宝塔・ ・屋根神様・西枇杷島問屋記念館・枇杷島橋・清音寺・屋根神様・尾州茶屋跡・ 白山神社・大木戸跡・江川一里塚跡・名古屋城・五条橋・四間道・屋根神様・伝馬橋〜 ★天保14年の清須宿は、本陣1(旧林家)脇本陣3(櫛田家、2軒は不明)、家数521軒、人口 2,545人、問屋場1。清涼寺の鐘、神明町両側の旅籠屋・茶屋・置屋・料理屋などが軒を 並べていた。清須宿は当初清洲城下の伝馬町に設けられたが慶長15年の清須越で廃止 され、続く洪水で流失し元和2年桑名町に置かれた。寛文8年の火災で神明町に移った。 |
◎D【名古屋宿】(美濃路)(Wikipedia) (辻の札)〜大須観音・西別院・東別院・古渡城跡・佐屋道標・熱田神宮一の鳥居跡・ ・断夫山古墳・源頼朝生誕地(誓願寺)・白鳥御陵道標・熱田神宮・上知我麻神社〜 ★天保14年の名古屋宿は、尾張藩の城下町で宿高はなく、「伝馬役4ヵ町」で宿役(伝馬役) を勤めた。家数1,157軒、人口4,188人、旅籠・本陣・脇本陣はない。貴顕の休泊には藩 の指示に従った。一般の人馬継立は伝馬番(会)所(渡辺→吉田)(伝馬町筋本町通西南 角)で他の宿と同様に行った。 |
◎E【宮(熱田)宿】(東海道)(Wikipedia) (裁断橋・姥堂・ほうろく地蔵・美濃路道標・赤本陣跡・西浜御殿・七里の渡し跡・常夜燈・ ・丹羽家住宅) ★宮宿は熱田宿ともいい、江戸時代には桑名宿への海上七里の渡し場で美濃路と佐屋路へ の分岐点でもあり、東海道随一の宿場でした。天保14年の宮宿は、本陣2(神戸町の 赤本陣(正本陣)は南部家、伝馬町の白本陣は森田家)脇本陣1、家数2,924軒、人口 10,342人、問屋場1。東海道筋は東の築出町から伝馬町を西進突き当たりの源太夫社 を南下、渡船場まで約1.2km。高札場のあった上知我麻神社(源太夫社・現神宮境内内) から北へ約2.8km美濃路の町並(市場町)が続いていた。 Top ★熱田神宮の各ホームページ等参照 (また拡大版内★散策マップ参照)(解説) ★熱田神宮(wikipedia)★熱田神宮動画★熱田神宮★YouTube熱田神宮(動画) ★東海道(wikipedia) ★健康ウオーキング東海道53次 ★東海道一人旅 ★美濃路のおもな史跡(下記解説参照)★美濃路(wikipedia)★美濃路1★美濃路 ★美濃路探策★Network2010美濃路(動画あり) ★一宮市観光協会ホームページ ★一宮市ホームページ ★尾西歴史民俗資料館 ★稲沢市観光協会★清須市(★清須市観光協会)★名古屋市★名古屋市観光情報 Top ★美濃路探訪(HP)★美濃路のおもな史跡 ★墨俣宿 ★大垣宿 ★羽島市観光協会 ★羽島市 ★大垣観光協会 ★大垣市 ★墨俣一夜城(Wikipedia)★美濃路街道(墨俣宿)★美濃路街道(大垣宿) ★今回一宮市からの出発点になった尾西歴史民俗資料館(起宿)と名鉄萩原駅(萩原宿)についてはこちらのHPを参照 |