現地見学・美濃路の宿場 〜墨俣・大垣〜・参加レポート
(平成26年5月18日(日)天気:晴れ)(今日の歩数:20,862歩)
平成26年5.18、尾西歴史民俗資料館講座「美濃路探訪」が開催され、墨俣宿・大垣宿の見学に参加した。
「美濃路とは、中山道垂井宿から、大垣・墨俣・起・萩原・稲場・清須・名古屋の7宿を経て、東海道宮宿(熱田)
へと続く全長14里24町(約58km)余りの街道。中山道に付属する脇街道として幕府の道中奉行の支配下に
置かれた道です。佐渡川(揖斐川)・墨俣川(長良川)・境川(小熊川)・起川(木曽川)に渡し場が設けられ、
将軍や朝鮮通信使などの通行の際には、いくつもの船をつなげて作られた「船橋」が架けられた。
美濃路の原型は鎌倉街道と考えられており、又、関ヶ原の合戦において、徳川家康が凱旋した道でもあること
から、江戸時代には「御吉例街道」とも呼ばれた。
美濃路は東海道の鈴鹿峠や伊勢湾を渡る「七里の渡し」のような難所が比較的少ないため、朝鮮通信使や
琉球使節などの外国使節、象などの珍獣、権威を誇った大名行列や御茶壷行列などの特殊な通行が頻繁に
行われる道となっていった。」
@午前8時30分尾西歴史民俗資料館集合・9:00出発>墨俣宿見学・一夜城見学>麦とろ(大垣・昼食)>
(墨俣宿・本陣跡・脇本陣跡・琉球使節記念燈篭・墨俣神社・墨俣一夜城見学)>
奥の細道結びの地記念館見学>全昌寺>大垣郷土館>大垣城下町見学>帰宅
(★船町道標・港跡〜奥の細道結びの地周辺>大垣宿本陣跡>大垣宿問屋場跡>大垣宿高札場跡>
大垣城東惣門跡(名古屋口門跡))は、★平成24年の美濃路ウオークのHPを参考にしてください。
★羽島〜垂井・美濃路ウオーキング(平成21年10月31日)(参照)★美濃路マップ(下記参照)
★美濃路探策(HP)★美濃路(大垣宿)(HP)
左は起宿脇本陣(旧林家・国登録有形文化財建造物) バスにて出発001 |
起宿脇本陣(日本庭園)から見た尾西歴史民俗資料館008 旧林家住宅は江戸時代の伝統的な町屋建築の様式を伝える。 |
羽島側の起渡船場跡の説明012 |
羽島側の金刀比羅神社013 |
金刀比羅神社の竹林015 |
ここも美濃路です。020 |
大浦(三つ屋)の道標(右いせみち左おこし舟渡)022 |
大浦(三つ屋)の道標の説明を聞く024 |
墨俣宿・脇本陣026 |
脇本陣跡の説明027 |
琉球使節通行記念燈龍t030 |
寛政3年(1790)儀衛正が揮毫した記念燈龍033 |
墨俣神社035 |
常夜灯台座の由来037 |
墨俣寺町界隈の案内047 |
新犀川堤防の桜並木055 |
美濃路周辺の寺町と史跡文化財w054 |
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史跡墨俣宿061 |
一夜城063 |
左は犀川に架かる太閤出世橋001 |
一夜城展望室からの眺望114 |
展望室からの眺望115 |
展望室からの眺望122 |
一夜城址t129 |
大垣市墨俣歴史資料館t140 |
一夜城築城解説w130 |
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一夜城を後にする001 |
一夜城143 |
一夜城144 |
奥の細道むすびの地記念館(芭蕉生誕370年祭開催中)149 |
全昌寺(木戸孝允等と維新の画策をした小原鉄心の墓がある)154 |
水門川159 |
美濃路の道標160 |
大垣市郷土館の庭園164 |
植物学者・飯沼慾斎t163 |
住吉燈台t201 |
郷土館内・戸田氏鉄公166 |
大垣城・城郭模型167 |
大垣城と入城する戸田氏鉄公173 |
明治29年と大洪水の石柱181 |
大洪水の水位を示す184 |
大垣城から鵜沼宿に移された鉄門跡187 |
大垣城本丸の城郭図188 |
大垣城西総門跡(京口門)190 |
船町港跡(左は住吉燈台)198 |
奥の細道結びの地の案内 072(2012年のHPから引用) |
水門川の歴史 w074 水門川は、大垣市から南流し揖斐川に合流する運河で、永禄4年 (1561)大垣城主氏家直元が、城池改築のとき開堀したと伝えられ る。 江戸時代におよび大垣十万石藩主戸田氏鉄により改修され、この 地方に集散する貨客の水運は産業の振興とともに発展し、大垣と 桑名・三河間の物資や人の輸送に大変な賑わいを見せていた。 又、文化の興隆に大きく貢献した。当時は多量の自噴水が水門川 に注ぎ、清らかな流れを見せアユ、ハエなど清流魚が泳ぎ回り、久 しい歴史の中に庶民生活と結びつき、広く親しまれ育まれてきた。 なお、この川は、大垣城の外堀として幾多の攻防の歴史に秘めら れた物語も多く、沿線一帯には今もなお奥の細道結びの碑、住吉 灯台など歴史や文化財が多く残され、水と緑の調和の中に、詩情 豊かな潤いのある風情をたたえている。 右の写真「谷木因俳句道標」(貞享年間1684〜1688建立)には、 「南いせ くわな 十りさいごうみち」とある。 ★(2012年のHPから引用) |
芭蕉の友人、谷木因俳句道標080 |
★水門川における”たらい船”案内(2012年のHPから引用)081 |
たらい船が賑わっていた090 |
曹洞宗 全昌寺 086 |
小原鉄心等小原家の墓(全昌寺内)084 |
全昌寺内にある小原鉄心の墓の説明w083 |
美濃路の船町道標(左江戸道 右京みち)089 |
美濃路に面した大垣城西総門跡の碑093 |
江戸の植物学者 飯沼慾斎邸跡094 (Wikipedia) 飯沼 慾斎 (いいぬま よくさい) 天明2年6月10日 (1782年7月19日) - 慶応元年閏5月5日 (1865年6月27日)) は、江戸時代の医家で 本草学者。 「リンネ」の植物分類法 を最初に採用した草木図 説を出版した。 伊勢国亀山(現三重県) 出身。 |
美濃路にある柿羊羹の老舗095(★Web参照) |
★大垣宿本陣跡098 |
美濃路大垣宿案内大垣宿本陣跡の札には次のようにある。 「本陣は、宿場のほぼ中央に位置し、お大名や宮家・公家・幕府役人などの貴人が利用した休泊施設である。 大垣宿本陣は、永禄の頃沼波玄古秀実が竹島町を開き、はじめて本陣を創立したと伝えられる。以後、本陣役は、宝暦五年(一七五五年) には玉屋岡田藤兵衛が勤め、天保十四年(一八四三年)には、飯沼定九郎が問屋を兼ねて勤めた」 「明治天皇行在所跡明治11年(1878)10月22日明治天皇は、東海・北陸御巡幸の帰途、美濃路大垣宿の旧本陣飯沼武右衛門邸に泊まられた。 飯沼邸は往還に沿って南面し、主屋には上段の間・下段次の間・家老の間・台所等の諸室が配され、なかでも明治天皇が泊まられた 『上段の間』は、奥庭に面した書院造りの大変風格のある8畳間であった」(Web参照) |
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美濃路の大垣宿問屋場跡w102 |
本町道標(左江戸道 右京道)104 |
美濃路大垣宿脇本陣跡t105 |
高札場跡107 高札場は、幕府からの禁制や通達を掲示する場所で、明治6年 (1873年)に廃止された。 大垣宿解説(wikipedia) 大垣宿(おおがきじゅく)は、美濃路の宿場である。現在の岐阜県 大垣市にある。 大垣宿は大垣藩の大垣城城下町でもある。このように宿場町であり 城下町である場所は加納宿等がある。 大垣宿は西口〜東口までの長さは約2.9km、京口門(西総門)〜 名古屋口門(東総門)までの長さは約1.1kmあり、大規模な宿場町 であった。京口門と名古屋口門は有事の場合、大垣城の7箇所の門と 同時に閉鎖される仕組みであった。 現在の大垣市の地名でいうと、伝馬町〜本町〜竹島町〜俵町〜船町 〜久瀬川町が該当する。 大垣市はかつての大垣宿の歴史・文化を利用した景観まちづくり を策定している。 |
東総門(名古屋口門)説明tomw110 | |
美濃路・大垣城名古屋口御門跡 111 |
水門川 (貴船神社北)113 |
墨俣一夜城 大垣城 |
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★(2012年のHP参照) ★ 以下の資料や画像は、2009年(平成19年10.31)の時のもの(羽島「大垣」→垂井)です。(参照) ★Topへ
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美濃路マップ (★Web美濃路参照) (★鎌倉街道参照) ★Topへ 垂井〜大垣=10.5km 大垣〜墨俣=8.0km 墨俣〜起=9.7km 起〜萩原=3.9km 萩原〜稲葉=5.9km 稲場〜清洲=5.9km 清洲〜名古屋=7.9km 名古屋〜宮宿=5.9km 合計57.7km ★ 以下の画像は、2009年 (平成21年10.31)の時のもの (羽島「大垣」→垂井)です。 (参照) ★Topへ |
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大垣、三塚の一里塚跡 066 (美濃路には13ヶ所の一里塚が設けられた。) ★美濃路マップ |
大垣宿 068 別名「水都」とも呼ばれ木曽三川 による水運と陸上交通の発達で城下町、宿場町 として発展。芭蕉をはじめ多くの旅人が往来した。 |
本町道標(左江戸道 右京道) 072 往時の美濃路が偲ばれる。 |
大垣宿本陣跡(明治天皇行在所跡) 076 (現在は竹島会館) |
船町道標(左江戸道 右京道) 081 往時の美濃路が偲ばれる。 |
船町港の住吉灯台(運河の水門川沿) 087 県指定史跡で大垣のシンボル |
奥の細道結びの地石標 092 松尾芭蕉(1644〜1694)ゆかりの水門川船町港跡や 奥の細道結びの地記念館などがある。 |
塩田の木製常夜灯 100 杭瀬川にかかる塩田橋の西側にある。ここに塩田港 があった。船附、赤坂と三大港の1つ。 |