’10.03.20(土)近鉄てくてくマップ(友歩会親睦ウオーク)
大黒屋光太夫ふる郷散策コース参加レポート(約10km)
(平成22年3月20(土)天気:晴れ ★(詳細版@)★(詳細版A)★(拡大版)
午前7時30分自宅>JR尾張一宮駅8:22>近鉄名古屋駅8:41発>伊勢若松駅9:25>緑芳寺(光太夫・亀屋菩提寺)
>大黒屋光太夫記念館>塩浜街道・千代岬海岸>江島公園(昼食)>江島若宮八幡神社(多数の絵馬群が県の民俗
資料文化財)>江戸両組常夜灯>伊勢街道の松並木>白子港緑地・光太夫モニュメント>鼓ケ浦海岸沿い>
鈴鹿市産業伝統会館見学>子安観音寺>伊勢参宮街道の古い街並み>寺尾家(伊勢型紙資料館)見学>白子駅
>名古屋・尾張一宮駅>帰宅 (今日の歩数:27,483歩)
(★大黒屋光太夫の説明)
伊勢若松駅(後ろ)前の大黒屋光太夫像006 9:44 |
大黒屋光太夫像(★拡大)005 9:30 |
緑芳寺(光太夫生家亀屋の菩提寺)本堂09 9:50 |
ロシア語の箴言と銀貨(1791年6月)011 9:55 |
ロシア皇帝下賜の1ルーブル銀貨12 9:57 |
光太夫顕彰碑016 10:25 ★Top |
大黒屋光太夫記念館019 10:30 |
光太夫供養碑024 11:04 ★Top |
千代崎港(塩浜街道千代崎橋から)26 11:11 |
光太夫顕彰碑(千代崎海岸沿い)★拡大32 11:22 |
風見鶏のある江島公園(昼食)038 11:46 |
貴重な絵馬がある江島若宮八幡神社042 12:40 |
絵馬049 12:47 ★Top |
伊勢街道の面影を残す松並木054 12:58 |
白子漁港059 13:18(★拡大) 井上靖原作映画「おろしや国酔夢譚」で有名 |
光太夫船出のモニュメント065(白子港緑地)13:24 天明2年(1782)17名がここから江戸へ出航した。 |
大黒屋光太夫(Wikipedia) ★Topへ大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は 江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。 天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。 首都ペテルブルグで皇帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年 (1792年)に根室港入りして帰国。 幕府の老中・松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚。その後は江戸で屋敷を与え られ、数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与。 桂川甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などで たびたび取りあげられている。 『生涯』 往時のアレウトの村の様子(1889年、コディアック島)。1世紀ほどずれてはいるが、光太夫の見た アムチトカ島の風景もほぼこのようなものであったろう。 光太夫はここでエカチェリーナ2世に謁見し、帰国の許しを乞うた。天明2年(1782年)12月、光太夫は 船員15名と紀州藩から立会いとして派遣された農民1名とともに神昌丸で紀州藩の囲米を積み、伊勢国 白子沖から江戸へ向かい出航するが、駿河沖付近で、暴風にあい漂流する。 一行は日付変更線を超えてアリューシャン列島の1つであるアムチトカ島へ漂着する。光太夫らは現地人 や毛皮収穫のために滞在していたロシア人と遭遇し、ロシア語を学習して彼らとともに協力して舟を 作って天明7年(1787年)に島を脱出する。 脱出後、カムチャツカ・オホーツクを経由して寛政元年(1789年)、イルクーツクに至る。イルクーツク に向かう途中、カムチャツカでジャン・レセップス (Barthelemy de Lesseps) (フランス人探検家。 スエズ運河を開削したフェルディナン・ド・レセップスの叔父)に会い、レセップスが帰国後に著した レセップスの旅行日記[1] に光太夫についての記述がある。イルクーツクでは日本に興味を抱いていた キリル・ラクスマンと出会う。キリルを始めとする協力者に恵まれ、寛政3年(1791年)ロシア政府に 帰国の願いを立てるためキリルに随行する形でペテルブルクに向かい、同年キリルらの尽力により ツァールスコエ・セローにてエカチェリーナ2世に謁見して帰国を許される。日本に対して漂流民を返還 する目的で遣日使節アダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われ、漂流から約10年を経て磯吉、小市と 三人で根室へ上陸、帰国を果たしたが、小市はこの地で死亡、残る二人が江戸へ送られた。 光太夫を含め神昌丸で出航した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島 やロシア国内で死亡、2名が正教に改宗したためイルクーツクに残留、帰国できたのは光太夫、磯吉、小市 の3名だけであった。 帰国後は、11代将軍徳川家斉、老中の松平定信の前で聞き取りを受け、その記録は桂川甫周が 『漂民御覧之記』としてまとめ多くの写本がのこされた。 また、桂川甫周は、光太夫の口述と『ゼオガラヒ』という地理学書をもとにして『北槎聞略』を編纂した。 海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞は蘭学発展に寄与することになった。 光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も樺太や千島列島に 対し影響力を強めていくようになった。 その後、光太夫と磯吉は江戸・小石川(東京都文京区)の薬草園に居宅をもらっている。 ここで光太夫は新たに妻も迎えている。故郷から光太夫ら一行の親族も訪ねて来ている。 昭和61年(1986年)に発見された古文書によって故郷伊勢へも一度帰国を許されていることが確認された。 寛政7年(1795年)には、大槻玄沢が実施した新元会に招待されている。 また、多くの人に招待されてロシアの話を語るなど、比較的自由な生活を送っており、決して軟禁されて いた訳ではないようである。 |