2012.10.30 奈良正倉院展と法隆寺・中宮寺
 見学レポート 天気:晴れ(平成24年10月30日)

文化センター7:30→大山田インター→針テラス→奈良(法隆寺・中宮寺)→正倉院展→帰宅
(今日の歩数:10.30:23,021歩) 
ブログ概要紹介法隆寺境内図法隆寺中門西院伽藍正倉院展解説法隆寺五重塔

参考:法隆寺中宮寺(HP)唐招提寺薬師寺(HP)薬師寺 (関連するホームページ一欄旧HP内)
   法隆寺・中宮寺(HP)国宝中宮寺(HP)(2010.6.23法隆寺見学HP)法隆寺と正倉院見学者の皆様


7:30出発001

道の駅針テラスで休憩hor003

レストラン萬佳(大和郡山市)で昼食004

南大門に向かうhor006

法隆寺境内の説明(下図参照)007

法隆寺中門(西院伽藍)hor009

法隆寺中門(西院伽藍)013

金堂hor017

五重塔t016

五重塔t027

聖徳太子像018

大講堂hor020

大講堂026

内側から見た中門hor021

中門と回廊022

大講堂と鐘楼hor024

金堂と五重塔028

大講堂前から五重塔を見上げるhor029

五重塔030

金堂、中門、五重塔hor032

金堂、五重塔033

金堂、五重塔hor034

金堂035

金堂hor037

五重塔038

境内の老木hor039

聖霊院040

東院伽藍(夢殿)に入るhor044

夢殿045

夢殿hor051

夢殿南側の礼堂046

夢殿を見て回るhor048

絵殿と舎利殿(右側)050

中宮寺に入るhor052

鬼瓦を除く屋根は銅葺き054

中宮寺hor056

中宮寺061

中宮寺に入るhor058

東院伽藍を望む063

東大門hor064

帰途に就く(右手は西院伽藍)065

南大門に向かうhor069

西院伽藍を振り返る071

南大門前の松並木hor076

南大門前の松並木078

夢殿の模型(法隆寺iセンター)hor079

東大寺前の賑わい081

正倉院展に向かうhor083

奈良国立博物館086

正倉院展見学の長蛇の列hor085

正倉院模型1/10(巾33m奥9.4m14m)089

博物館前の庭園と八窓庵hor091
平成22年
2010.6.23法隆寺南大門186
平成22年
2010中門193(推古天皇と聖徳太子建立)拡大
平成22年
2010.6.23法隆寺五重塔200(世界最古の木造建築)
平成22年
2010.6.23法隆寺中門204(拡大
平成22年
法隆寺金堂と五重塔@211拡大)
平成22年
金堂と五重塔A216
平成22年
法隆寺秘宝展228(撮影禁止が残念)
平成22年
斑鳩神社(菅原道真を祀る)234
平成22年
法隆寺夢殿(八角円堂)247(拡大
行信僧都が太子を偲び739年に建立
平成22年
中宮寺258(太子の母、穴穂部間人皇后の宮)
本尊菩薩は半跏思惟像(国宝)
平成22年
法隆寺バス停付近のお店272
平成22年
薬師寺東塔と金堂284(680年天武天皇発願)
平成22年
薬師寺金堂292(2重2閣、5間4面、各層に裳階、
竜宮造りと呼ばれている) 薬師3尊像は国宝拡大
平成22年
薬師寺三重塔(西塔)293
裳階(もこし)をつけた美しい塔だ
平成22年
薬師寺東塔295t(2010秋から10年間、解体修理)
平成22年
薬師寺西塔296t
平成22年
薬師寺大講堂(正面41m奥行20m高さ17m)305
平成22年
金堂と西塔(大講堂から撮す)309
平成22年
薬師寺西塔23hyt311
平成22年
玄奘三蔵院の玄奘塔(薬師寺北)23hyt314
平成22年
玄奘三蔵像317 (大唐西域壁画殿では平山郁夫
画伯の西域を描いた作品があった)
平成22年
唐招提寺金堂324鑑真和上創建。御影堂
 には東山魁夷画伯の障壁画や襖絵がある  Topへ

法隆寺境内図 horyumap Topへ
法隆寺中門 horyuw013Topへ
法隆寺五重塔 horyuwt031 Topへ
西院伽藍 horyuw071Topへ
法隆寺と正倉院見学者の皆様(2012.10.30)  Topへ
正倉院展解説syosointenh24 Topへ

リンクと主な見所説明         Topへ
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その他    Topへ 奈良(なら)国立博物館 世界遺産 正倉院
法隆寺                            Topへ
法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られています。
その創建の由来は、「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記
資財帳』(747)の縁起文によって知ることができます。
それによると、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されましたが、その実現
をみないままに崩御されたといいます。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、推古
15年(607)に寺とその本尊「薬師如来」を造られたのがこの法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれています)で
あると伝えています。
現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。
広さ約18万7千平方メートルの境内には、飛鳥時代をはじめとする各時代の粋を集めた建築物が軒をつら
ね、たくさんの宝物類が伝来しています。
国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に及んでいます。
このように法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、とくに
1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教
文化の宝庫として人々の注目を集めています。

法隆寺紀行 法隆寺(wikipedia) 法隆寺(HP)法隆寺の歴史 法隆寺五重塔
法隆寺西院篇 聖徳太子謎紀行

中宮寺(wikipedia) 公式HP 中宮寺(ちゅうぐうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺に隣接する、聖徳太子ゆかりの寺院である。 宗派は聖徳宗に属す。山号を法興山と称し、本尊は如意輪観音、開基(創立者)は聖徳太子または間人 皇后とされている。 中宮寺は、現在は法隆寺東院に隣接しているが、創建当初は400メートルほど東にあった。 現在地に移転したのは中宮寺が門跡寺院となった16世紀末頃のことと推定される。旧寺地の発掘調査の 結果から、法隆寺と同じ頃、7世紀前半の創建と推定されるが、創建の詳しい事情は不明である。 天平19年(747年)の『法隆寺縁起』[1]や『上宮聖徳法王帝説』には、「聖徳太子建立七寺」の一と されるが、確証はない。中宮寺独自の創立縁起は伝わらず、『日本書紀』にも中宮寺創建に関する記載 はない。 平安時代の『聖徳太子伝暦』は、中宮寺は聖徳太子が母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめ みこ、間人皇后)の宮殿を寺としたと伝え、後には間人皇后自身が発願者であるという伝承も生まれる。 鎌倉時代の顕真が著した『聖徳太子伝私記』の裏書には、「葦垣宮、岡本宮、鵤宮(いかるがのみや) の3つの宮の中にあった宮なので中宮といい、それを寺にした時に中宮寺と号した」との説が記載され ている。 中宮寺は平安時代以降衰微し、鎌倉時代には中興の祖とされる信如によって復興が図られた。 信如は文永11年(1274年)、法隆寺の蔵から聖徳太子ゆかりの「天寿国繍帳」を再発見したことで知ら れる。 江戸時代初期の慶長7年(1602年)、慈覚院宮を初代門跡に迎え、以後門跡尼寺として今日に至っている (門跡寺院とは、代々皇族、貴族などが住持する格式の高い寺のこと)。
唐招提寺                         Topへ 唐招提寺 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 唐招提寺 金堂(国宝) 所在地 奈良県奈良市五条町13-46 山号 なし 宗旨 律宗 寺格 総本山 本尊 廬舎那仏(国宝) 創建年 天平宝字3年(759年) 開基 鑑真 中興年 寛元2年(1244年) 中興 覚盛 札所等 神仏霊場巡拝の道第24番 文化財 金堂、乾漆鑑真和上坐像ほか(国宝) 礼堂、絹本著色十六羅漢像ほか(重要文化財) 世界遺産 唐招提寺は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の一つである律宗の総本山である。 本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった 中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂をはじめ、多くの文化財を 有する。 歴史 『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(にいたべしん のう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、 サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表わす語であったが、「寺」 「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。 つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。 鑑真の渡日と戒律の伝来 鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それを もとにした淡海三船(おうみのみふね)の『唐大和上東征伝』、寺に伝わる絵巻物『東征絵伝』、 井上靖の『天平の甍』などに詳しい。 鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは、仏教教団 の構成員が日常生活上守るべき「規範」「きまり」を意味し、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、 正式の僧に授ける「具足戒」とがある。 出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という場で、「三師七証」という授戒の師3人と、証明師 (授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと、「具足戒」を受けねばならないが、当時 (8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足し ていた。そのため、官の承認を経ず、私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧と なる者もいて、社会秩序の乱れにつながっていた。 こうした中、天平5年(733年)遣唐使とともに渡唐した普照と栄叡(ようえい)という留学僧がいた。 彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。 普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申 し出た。鑑真の弟子たちは渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子たちのうちに渡日の志をもつ者 がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命がけであった うえに、唐ですでに高僧として名の高かった鑑真の出国には反対する勢力もあった。そのため、鑑真、 普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。ある時は船を出す前に関係者の密告で普照と栄叡が 捕縛され、ある時は船が難破した。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端 の海南島まで流されてしまった。 陸路揚州へ戻る途中、それまで行動をともにしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も 死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功す るが、鑑真は当時すでに66歳になっていた。 遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年 (754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、 光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は日本で過ごした晩年の 10年間のうち、前半5年間を東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の 唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年 (763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった。 唐招提寺 唐招提寺(Wikipedia)
薬師寺(wikipedia) 国宝 東塔 特別開扉          Topへ 薬師寺の国宝・東塔が2010年秋より修繕に入ります。これに先立ち、東塔初層内陣が初めて約半年の長期 にわたり開扉されます。薬師寺の創建時より現存する3重の塔で、各層に裳階とよばれる小さい屋根がつ いている。東塔入口より初層をのぞきこむかたちで、宝相華文様の内陣天井絵が拝観できます。 開催日時 2010年4月8日〜10月31日(予定) 開催場所 奈良市 薬師寺 お問い合わせ先 薬師寺 0742-33-6001 薬師寺                      Topへ 薬師寺白鳳伽藍の東塔 -------------------------------------------------------------------------------- 文武2年(698年)藤原京に創建されたが、平城遷都に伴い現在の場所に移転(718年)。 数度の災害と1528年の兵火により、創建時の建物で東塔以外は焼失したが、金堂は1976年に、 西塔は1981年に、中門は1984年に、回廊の一部は1991年に、大講堂は2003年にそれぞれ有縁の 人々のお写経勧進によって復興され、往時の華やかな姿を偲ばせている。 -------------------------------------------------------------------------------- 開門時間 8:30〜17:00(受付は16:30まで) 住所 奈良県奈良市西ノ京町457 アクセス JR「奈良駅」から奈良交通バス約17分「薬師寺」すぐ。もより駅 奈良駅。Topへ
薬師寺は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。 南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇である。 1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。 現・管主は山田法胤である(2009年8月着任)。 歴史 薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿(きどの)町) の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。 ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒東経135度48分0.95秒 )の伽藍も10世紀頃までは 引き続き存続していたと見られる。 創建 『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良 (うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。 薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔?銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木扁に「察」) にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統 天皇、文武天皇の代に引き継がれた。 「東塔?銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇) の病気のため、この伽藍を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇 (持統)が完成したものである」という意味のことが記されている。ここでいう「天皇即位八年、庚辰之歳」 は、『書紀』の「天武天皇9年」と同じ年を指している。 すなわち、『書紀』は天智天皇の没した翌年(壬申年、西暦672年にあたる)を天武天皇元年とするが、天武 が正式に即位したのはその翌年(西暦673年にあたる)であり、「天皇即位八年」とは即位の年から数えて 8年目という意味である。 持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、 この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年) には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この創建薬師寺は、藤原京の右京八条三坊の地にあった。 大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」と して特別史跡に指定されている。 平城移転 薬師寺式伽藍配置の概念図。A:中門、B:回廊、C:金堂、D:塔、E:講堂、F:鐘楼、G:経蔵その後、和銅3年 (710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した右京六条二坊(現在地) に移転した。移転の時期は長和4年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年 (718年)のことであった。ただし、平城薬師寺境内からは霊亀2年(716年)の記載のある木簡が出土して いることから、造営は養老2年よりも若干早くから始まっていたとみられる。 『扶桑略記』天平2年(730年)3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのが その年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。 なお、平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果か らは平安時代中期、10世紀ころまでは存続していたようだが、後に廃寺となった。 本薬師寺跡には金堂・東塔の礎石、西塔の心礎が残っている。本薬師寺の伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」 と称されるもので、中央に金堂、その手前に中門、背後に講堂を配し、金堂の手前東西に塔を置く。 そして、中門左右から出た回廊が講堂の左右に達し、金堂、東西両塔は回廊で囲まれている。この伽藍配置 は平城薬師寺においても踏襲されている。本薬師寺、平城薬師寺双方の発掘調査により、両伽藍の建物の 規模、位置関係などはほぼ等しく、本薬師寺の伽藍を平城薬師寺に再現しようとしたものであることがわか る。ただし、平城薬師寺では中門の規模が拡大され、回廊も幅が広げられている。 平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。 現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。天禄4年の火災では金堂、東塔、西塔は焼け残ったが、 講堂、僧坊、南大門などが焼けた。発掘調査の結果、西僧坊の跡地からは僧たちが使用していたとみられる 奈良時代や唐時代の陶磁器が多数出土しており、天禄4年の火災の際に棚から落ちて土中に埋もれたものと みられる。 Top 玄奘三蔵の生涯(薬師寺HP) (関連するホームページ一欄

LINK:
平城遷都1300奈良フリーウオーク歴史街道奈良遷都1300年キッズ簡易歴史年表)(HP)
奈良満彩平城京跡会場と事業スケジュール動画で見る平城宮跡会場(HP)
JR奈良駅観光情報(お出かけNET)

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