2010.11.05 平城遷都1300年 
唐招提寺と奈良国立博物館(正倉院展)日帰りバス見学レポート 

詳細版拡大版
唐招提寺金堂 廬舎那仏 千手観音 薬師如来 弥勒如来座像 唐招提寺境内史跡

唐招提寺 解説欄(1300年祭・奈良公園)

唐招提寺金堂 tsw091
廬舎那仏(金堂本尊、脱活乾漆像)3.04m 鑑真弟子義静の作(8世紀後半)  Topへ

光脊の千仏は864体が残る
千手観音(木心乾漆造)5.35m 奈良時代末期作 Topへ

現状大手42本、小手911本 計953本 (下記、平成13年 千手観音脇手解体(展開)図参照)

薬師如来(木心乾漆造、平安初期造)5.36m Topへ

1972年の修理持に左手の内側から3枚の古銭が発見された(延暦15年796年以降の鋳造)
弥勒如来座像(講堂本尊像高2.833m鎌倉時代1287年) Topへ

右に木造持国天、増長天立像
唐招提寺境内史跡 Topへ


唐招提寺                         Topへ
唐招提寺 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

唐招提寺 金堂(国宝) 所在地 奈良県奈良市五条町13-46 
山号 なし 宗旨 律宗 寺格 総本山 本尊 廬舎那仏(国宝) 創建年 天平宝字3年(759年) 
開基 鑑真 中興年 寛元2年(1244年) 中興 覚盛 札所等 神仏霊場巡拝の道第24番 
文化財 金堂、乾漆鑑真和上坐像ほか(国宝)
礼堂、絹本著色十六羅漢像ほか(重要文化財)
世界遺産 

唐招提寺は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の一つである律宗の総本山である。
本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった
中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂をはじめ、多くの文化財を
有する。

 歴史 
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(にいたべしん
のう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、
サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表わす語であったが、「寺」
「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。
つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。

 鑑真の渡日と戒律の伝来 
鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それを
もとにした淡海三船(おうみのみふね)の『唐大和上東征伝』、寺に伝わる絵巻物『東征絵伝』、
井上靖の『天平の甍』などに詳しい。
鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは、仏教教団
の構成員が日常生活上守るべき「規範」「きまり」を意味し、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、
正式の僧に授ける「具足戒」とがある。
出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という場で、「三師七証」という授戒の師3人と、証明師
(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと、「具足戒」を受けねばならないが、当時
(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足し
ていた。そのため、官の承認を経ず、私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧と
なる者もいて、社会秩序の乱れにつながっていた。
こうした中、天平5年(733年)遣唐使とともに渡唐した普照と栄叡(ようえい)という留学僧がいた。
彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。
普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申
し出た。鑑真の弟子たちは渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子たちのうちに渡日の志をもつ者
がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命がけであった
うえに、唐ですでに高僧として名の高かった鑑真の出国には反対する勢力もあった。そのため、鑑真、
普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。ある時は船を出す前に関係者の密告で普照と栄叡が
捕縛され、ある時は船が難破した。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端
の海南島まで流されてしまった。
陸路揚州へ戻る途中、それまで行動をともにしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も
死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功す
るが、鑑真は当時すでに66歳になっていた。
遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年
(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、
光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は日本で過ごした晩年の
10年間のうち、前半5年間を東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の
唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年
(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった。

唐招提寺 唐招提寺(Wikipedia)

平城遷都1300年祭ホームページ参照                     Topへ


猿沢の池(wikipedia)                    Top

猿沢池は、奈良県奈良市の奈良公園にある周囲360メートルの池。興福寺五重塔が周囲の柳と一緒に
水面に映る風景はとても美しく、奈良八景のひとつとなっている。
 概要
興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた人工の池である。
放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式である。
現在、猿沢池園地として整備され、市街地に近いこともあって市民の憩いの場となっている。
奈良公園                              Topへ
奈良公園 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 奈良公園は、奈良県奈良市の若草山麓に広がる都市公園。国の名勝。
 概要
太政官布達により明治13年(1880年)2月14日開園。大部分が国有地で、奈良県が無償で借用し
管理している。都市公園としての正式名称は「奈良県立都市公園 奈良公園」といい、総面積
は502ヘクタール。周辺の興福寺、東大寺、春日大社、奈良国立博物館、なども含めると総面積
はおよそ660ヘクタール(東西約4キロメートル、南北約2キロメートル)に及ぶ。
通常はこの周辺社寺を含めたエリアを奈良公園と呼ぶことが多い。
公園内には多くの国宝指定・世界遺産登録物件が点在し、年間を通じて日本国内のみならず
外国からも多くの観光客が訪れ、日本を代表する観光地の一つとなっている。
奈良の大仏や鹿は国際的にも有名で、奈良観光のメインとなっており、修学旅行生の姿も多く
見られる。東大寺修二会やなら燈花会、正倉院展、春日若宮おん祭など古都ならではの見ごた
えのある行事も数多い。
塀・柵・門などがなく入園料も不要なのでどこからでも、いつでも(365日・24時間)散策す
ることができる。なお、旧「史蹟名勝天然紀念物保存法」に基づく名称は「名勝奈良公園」
である。
 公園内施設
 鹿苑付近 飛火野、興福寺五重塔と猿沢池、若草山、東大寺(奈良の大仏)、正倉院 、
手向山八幡宮 、春日大社 、春日山原始林(春日奥山道路)神苑 、鹿苑 、興福寺 、
浮雲園地 奈良県新公会堂(ビッグルーフ)、春日野園地 奈良公園シルクロード交流館 、
登大路園地 、奈良国立博物館 、氷室神社 、日吉館 、依水園 - 池泉回遊式日本庭園。
単独で国の名勝 吉城園 、飛鳥園 、浅茅ヶ原園地 、片岡梅林 、円窓亭 、
浮見堂(かつては浮御堂と標記されていた)、鷺池 、荒池園地 、飛火野園地 、
猿沢池園地 、猿沢池 

関連するホームページ一欄平城遷都1300年祭公式ホームページ

ホーム   詳細版拡大版

平城遷都1300年祭見学レポート→(2010.6.22〜24)
詳細版@ A B 拡大版Topへ